奇跡

 奇跡は突然やってきた

「だるい」
 シエラの突然の宣言に、俺はまたか、と軽く眉だけあげた。
「この前からずっとそう言ってないか?」
 体を起こし、顔を覗き込むと、シエラは眉間に皺をよせたまま気だるげに寝返りをうつ。
「ん……血でも足らぬ……のかのう」
「あんたの調子がよくなるんなら血でも何でもやるけどさ。……大丈夫か?」
 額に張り付く髪を払ってやると、額はわずかに熱を帯びている。基礎体温が低いシエラにしては珍しいことだ。
 俺は不安になってベッドから起きあがった。
 シエラが体調不良を訴えだしたのは、ここビュッデヒュッケ城におちついた俺のところに、こっそり彼女が入り浸るようになって、数週間後のことだった。
 任務の途中だというのに、珍しく恋人と暮らすことのできるこの生活は、とても幸せで、俺は毎日のようにシエラといちゃついていた。
 しかし、ここのところシエラの調子が悪い。
 月の紋章を宿しているから、月の満ち欠けに体調が左右されているのか、とも思ったがどうもそうでもないらしい。
「シエラ……?」
 声をかけた時だった。
「……っ、!」
 がば、とシエラが起きあがった。そして青ざめた顔のままベッドから飛び出すと洗面台へと走り込んだ。
「シエラ!」
 崩れそうになった体を支えようとした瞬間、シエラは洗面台に吐いた。
 いつもお上品にとりすまして、吐く様子すら見せたことのないシエラの醜態に、俺は驚く。
「だ、大丈夫……じゃ、ナッシュ」
「そんな咳き込みながら言われたって説得力があるわけないだろうが!」
 俺は、シエラの口をすすいでやると毛布でくるんで抱き上げた。
「ナッシュ! 何をするのじゃ」
「医者」
 俺は自分のジャケットを軽く羽織るとシエラを抱いたまま、ドアに向かった。腕の中でシエラが暴れる。
「医者って、おんし、わらわの存在を忘れておらぬか?」
「元の造りは人と同じだろうが。こういうときはおとなしくする!」
「しておられるか。ナッシュ! やめよ!」
 暴れるシエラを無視して、俺は医務室に向かった。真の紋章持ちの彼女を医者に連れて行ったら面倒になるのは目に見えている。だが今は非常事態だ。
 質問されたときにはそのとき、なんとか言いくるめればいい。
「後の面倒より、俺はあんたの体のほうが大事! おとなしくしてろよ」
「……っ!」
 俺が言い切ると、シエラは暴れるのをやめた。俺は人に会わないよう、中庭を通って医務室に向かった。ドアを開けると、休憩していたらしいトウタとミオが俺たちを迎える。
「ナッシュさんいらっしゃい。って……あれ? シエラさん?!」
 トウタは、俺の腕の中の人物を見て、腰を浮かせた。シエラは気だるげにトウタを見やる。
「ん? おんしは誰じゃったかいのう……?」
「お忘れ……というよりは、僕が変わりすぎたから解らないのでしょうか。僕はトウタですよ。ほらデュナンでホウアン先生の手伝いをしていた」
「おお、ホウアンのところの童か! 大きくなったのう」
「ホウアン先生の指導のもと、念願の医者になりまして、ここに寄せさせて頂いているんです」
 にこにこと笑いながら、トウタはシエラの差し出した手に握手した。
「トウタ先生?」
 ミオが不思議そうに俺たちを見比べる。トウタは苦笑した。
「彼女は僕の古い知り合いのシエラさん。月の紋章の持ち主で、吸血鬼でもあるんです。内緒ですよ?」
 にっこりとトウタが笑うと、ミオも納得したらしくほほえみかえす。俺はシエラを降ろすと、診察台の上に座らせた。
「シエラの事情がわかってるなら話は早い。ちょっと診てやってくれないか? ここのところ調子が悪くて、さっきも吐いたんだ」
「シエラさんが病気? それは珍しいですねえ」
「じゃからたいしたことではないと……」
「たいしたことあるって」
 俺はシエラの言葉を無視してトウタに状況を伝える。
 ここのところだるがっていること。熱っぽいこと。普段から偏食だが、ここのところ特に好き嫌いが激しいこと(放っておきゃレモンばっかり食ってやがる)。
「ふうん……それはちゃんと診ておかないとだめですねえ」
「だろう? 俺はそこで待ってるから、頼んだ」
 俺はトウタにシエラをまかせると、診察台から離れて衝立の向こうに移動した。布一枚隔てた先では、観念したらしいシエラが素直に診察を受けている。
 シエラの病気。
 彼女はもちろん真の紋章を宿した吸血鬼だから、そう簡単に死ぬようなことはないし、体も丈夫だ。
 とはいえ不死というわけではない。
 紋章を外し、封印の詩歌と共に封じられれば死なないこともない。
 紋章持ちだからこその制限もあるだろう。
 そうなれば、ただの医者ではどうにもならないことだってある。
 つらつらと不安な思考に身を任せていた俺は、ふと横に人が来た気配で顔をあげた。トウタが立っている。
「診察は終わったのか?」
「まあ大体は。今ミオさんに確認をしてもらってます」
「そうか」
 トウタの顔が、あまり暗くないのを確認して俺は少し笑った。たいしたことではなさそうだ。
「で、その間に少しナッシュさんに聞きたいことがあるんですけど」
「俺に?」
「看病の関係もありますから、単刀直入に聞きますけど、ナッシュさんってシエラさんとどういう関係なんですか?」
「……っ?! え……いやまあその」
 トウタは楽しげに笑っている。
   俺はその顔をじろりと睨んでやった。
「俺のカミさん……だ。大体予想はしてただろうが」
「あんな慌てた顔のナッシュさん、初めて見ましたからね。うん、でもよかったです」
 何がよかったのやら、トウタは笑うと衝立の向こうに声をかけた。
「ミオさん、終わりましたか?」
「はい。こちらに来て大丈夫ですよ」
「じゃあ行きましょうか」
 トウタに促されて、俺は診察台の側へ移動した。そこではシエラが身支度を調えて座っている。トウタはミオに顔を寄せた。
「ミオさん、それで……」
「トウタ先生の予想通りです」
「やっぱり」
 トウタとミオは何故か笑いあう。
 俺は妙な気分でシエラの横に座った。
「シエラ、これは一体?」
「わらわにも解らぬのじゃ。トウタ、解っているのならさっさと病名を言うがよい」
 椅子に座り直したトウタは、また微笑んだ。
「ええとですね、シエラさんの病名というか……病気でもないんですけど、症状の理由は、妊娠です」
「………………………………は?」
 たっぷり三十秒は思考が停止していたと思う。
「だから妊娠です。おめでたなんですよ!」
「おめ……でた……?」
 言葉が、頭で認識できなくて、俺の言葉は空回りする。隣でシエラも呆然と硬直していた。
「わらわの腹に……子がおる……とそういうことなのかえ?」
「そういうことです」
 トウタはきっぱりと言い切る。彼は優秀な医者だ。嘘は言わない。
 にしたって、シエラが妊娠って……妊娠?!
「……吸血鬼って、子供、産めるのか?」
 俺は頭に浮かんだ疑問を口にした。
 シエラが持っているのは、真の紋章の中でも特別な、月の紋章。彼女は不死の吸血鬼だ。半分魔物と化している彼女が子供を産めるとは思っていなかったから、当然避妊も何もしてなかったんだが。
「産めるみたい、ですねえ。現にできちゃってますし。シエラさん、生理はありますか?」
「……まあ、数年か十数年に一回程度じゃが」
「あったのか? シエラ!!」
「うるさい、黙れナッシュ」
「ふうん……じゃあシエラさんの体は死んでいるというよりは、代謝がひどくゆっくりになっている状態なんですね、きっと」
 おもしろがっているのか何なのか、トウタは終始笑っている。
「妊娠ってことは……これから出産させるための準備をしなきゃならないってことか?」
 俺が聞くと、トウタは頷いた。
「そういうことです。人目につきたくないということでしたら、こちらから往診もしますので、おいしいものを食べてゆっくり生活してください」
 お大事に、と朗らかに笑うトウタと見送られて、俺とシエラは医務室を後にした。
 出てきたときと同じように、シエラを抱きかかえたまま俺は部屋へと向かう。(シエラに靴さえ履かせてなかった俺は、どうやらかなり慌てていたらしい)
「出産となると、しばらく生活する家が必要だな……、それから、俺は結局留守がちだから誰か手伝いをしてくれる人を探さないと。やっぱりトーマスに相談するのが一番かなあ……」
「ナッシュ」
「当座の生活は、いままで貯めてきた金があるからいいとして」
「ナッシュ!」
 耳元で強く名を呼ばれ、俺はシエラを見下ろした。鮮やかな血の色の瞳が俺を睨む。
「一人で勝手にあれこれと決めおって……おんしは産ませる気かえ?」
「ああそのつもりだよ」
「安易に肯定するでない! わかっておるのか? わらわは吸血鬼なのじゃぞ? そのわらわの子なのじゃ。何が起こるかわからぬのじゃぞ?」
 ああ、そういう風にシエラが言うことは、予想ができたさ。
 俺はシエラの瞳を見つめる。
「だからって、あんたは今その腹の子を殺せるのか?」
「……っ!」
 わざと『堕ろす』ではなく『殺す』と表現して言ってやると、シエラは言葉に詰まった。なんだかんだ言って、シエラは情が深いのだ。そう言われて殺せるわけがない。
「俺は、子供ができて嬉しいよ」
 シエラは俯いて俺の胸に顔を埋めた。
「シエラと俺の子供が、いる。想像もしてなかったけどさ、なってみるとすごく嬉しい」
 俺はシエラの髪をなでる。肩が、わずかに震えた。
「一緒に生きよう? こいつと三人でさ」
「……うん」
 シエラを抱き直すと、俺は部屋へとゆっくり歩いていった。

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