いつのころからか、その背中を軽く叩くのが、俺の日課になっていた。
初めて話したのは、士官学校。
女で、しかも四つも年下の生徒が、同じ学年に上がってくるという。
クリス・ライトフェロー
鳴り物いりで入学してきた彼女は、もともと噂の種だった。
家柄、性別、容姿、能力。
全てにおいて、他を凌駕しているその姿に、目を留めない者はいなかったからだ。
美人だ、と周りは囁く。
しかし、俺は当初、あれを美人だとは思わなかった。
顔立ちは綺麗だ。
それは認めよう。
銀の髪は輝かんばかりで、菫色の瞳も澄んでいて美しい。
だけど。
あの張り詰めた背中はどうだ。
緩めたらおしまい、といわんばかりに引き結ばれた唇は?
綺麗かもしれないが、あれは『美人』ではないだろう。
それが第一印象。
そのときは、完全に彼女は俺の対象外、だったのだ。
ある日ふと、口をきいたのがきっかけだった。
『持ちましょうか?』
重そうに馬の鞍を抱えた彼女に、俺が手を差し出した。授業の終わった馬場は、俺の気に入りの場所。日が暮れる前にとやってきたら、練習をしていたらしい彼女にかち合ったのだ。
仏頂面をこちらに向けられて、俺は少し後悔する(顔は笑ったままだったが)。
やっぱりこいつは『美人』じゃない。
『いい。これは自分のものだから、自分で運ばないと』
『そう』
俺は素直に手を引っ込めた。
士官学校での行動規範はまず『自分のことは自分で』それは女性も例外じゃない。この場合、彼女の主張のほうが正しいだろう。
あっさり引かれたのに、少し驚いたらしい。菫色の目が、少し見開かれた。
『貴方は、ここへ何をしに?』
なんとなく、お互いに歩調を合わせて厩舎へと向かう。一応クラスメイトに当たるわけだから、これが普通だろう。
『愛しのヴィラローザに会いに』
『ヴィラローザ? あの馬は貴方の馬なのか?』
少女は俺を見上げた。こんなところで逢引か、などと言われることを予想していた俺は、少し驚く。
『よく私の馬の名前を知っていますね?』
『貴方の馬は、いい馬だからな。手入れが行き届いていて、いつもご機嫌だ。私には真似できない』
馬がいいから覚えていたのか。
それなりに女性に印象を与える自分の容姿に自負を持っていた俺は、少し失望する。
まあ、相手が相手だから期待などしてはいないけれど。
沈黙している間に、厩舎の前へと到着した。ここからは、俺と彼女の行き先は正反対の方向になる。
『それじゃ』
『あ、ああ……』
少し、引き止めたそうな顔をして、彼女はまた向き直る。
何が聞きたいのか。
大体予想はしているが、なんとなく無視してみる。
別に、彼女の聞きたいことに、艶っぽいものがあるわけじゃない、それが分かっていたから。
すると、彼女はあきらめたようにして、自分の方向へと足を向けた。
その様子を見て、俺に気まぐれが起きる。
『……馬のブラッシングのコツ、教えて差し上げましょうか?』
背中に、そう声を投げかけてやると、彼女はぱっと振り向いた。
その顔は、今までに見たことがないほど無邪気な笑顔だった。
それを見て、俺は思った。
こういう顔は『美人』なんだ。
それから、彼女は順調に出世していった。
主席で卒業。
最年少で騎士団長部隊へ配属。
同時に裏で『女の癖に』『色香を使って』などと騒がれる。
彼らは知っているのだろうか?
彼女がその地位を手に入れるために手放したものの重さを。
彼女が強くあるためにどれだけの努力をしてきたのかを。
いつも夜遅くまで消えない明かり。
激務をこなす彼女が、月に一度見せる顔色の青白さ。
お坊ちゃん育ちの俺の友人のように、それに気がついた人間もいたはいた(あの朴念仁がよく気づけたものだと驚いたが)
しかし、彼らは苦労に耐え尚凛とした姿を認めると、皆女神と崇拝した。
女神? 天才?
冗談じゃない。
あれは女だ。
才能の上に努力という名の厚化粧をこれでもかというほど塗りたくり、理想という名の夢物語を足元も見ずに追いかけている
ただの、女。
俺はあの取り澄ました顔を引っぺがしてやりたいと思うようになった。
固く結んだ唇の下の、花のような微笑。
睨み付けるようにして前に向けられた眼差しの下の無邪気な光。
それが見たくて。
自分自身で作り出した鎖でがんじがらめになっている、その下から助け出してやりたい。
だから、時折彼女の背中を叩くのだ。
女神などではない、人としていられる場所をつくるために。