耳に残るのは君の歌声

 気がつけば、闇の中にいた。
 眼前には闇。
 後方にも闇。
 当然、左右も頭上も足下も、広がるは闇。
 全て闇。
 シエラの視界を構成する色彩は全て漆黒に塗りつぶされていた。
 空疎な、底冷えのする闇はどこまでも続いている。
 闇、闇、闇。
 見回して、シエラは、視界どろか世界全てが闇であるということを理解した。
 ここは……。
 更に考えを巡らそうとした直前、何かに呼ばれた。
 形ある呼びかけではない。
 だが、確かにシエラに向けて発せられたもの。
 冷えた、そしてどこまでも空疎な呼びかけ。
 考える前にまた呼ばれる。
 今度はもっとはっきりと。
 それは、シエラに『来い』と意志をたたきつける。
 呼ばれた方向を見て、シエラは気づいた。
 呼んでいるのは闇、だ。
 茫漠たる闇の中、更に濃く深い闇の底から呼ばれている。
(来い……)
 また、呼ばれる。
 段々とはっきりとしてくる意志に、本能的に抵抗して、シエラは身を引こうとした。
 けれど、からだは動かない。
 いや、動いたのかもしれないが、この闇の中ではあがきさえも闇の中に吸い込まれる。
(来い……)
 呼び声はまた強くなる。
 引き寄せようとする声に、シエラは尚抗った。
 この闇を、シエラは知っていた。
 ずっと昔から共にあった闇。ずっとシエラを脅かし続けていたそれは常より格段に力を持っている。
 嫌だ……!
 言葉を発したはずだが、それは空気をふるわせる粉と泣くまた闇へと吸い込まれる。
 闇に侵された手足はすっかり冷え切って、動かそうにも、かじかんでふるえるばかりだ。
(来い)
 闇に腕さえ捕まれた気がする。
 無駄だと思いながら目を閉じた。
 そのとき。
(…………?)
 何かが、シエラを包んだ。
 不快なものではない。
 暖かく柔らかなそれは、シエラを闇の手から引きはがした。
 形あるものではない。
 なつかしくて優しいそれは、しばらくして歌だということがわかった。
 ああ、これは。
 このやさしい歌にも覚えがあった。
 これは、シエラを護るものだ。
 歌はゆっくりとシエラに熱を与える。
 闇の冷気は退いていた。
(……来、い……)
 また、闇によびかけられた。
 さっきより遠い。
「やめよ」
 闇の前に、シエラの凛とした声が響いた。
「わらわは、おんしと同化するつもりはない」
 呼びかけは遠くなる。
「わらわはまだ、『人』なのじゃ」
 再び宣言すると、頭上から光がさした。
 じわじわと闇を切り裂く光のほうへと、シエラは歌に護られながら浮上していった。

「……シエラ!」
 男の声で、シエラは目をあけた。
「ん……んん?」
 目の前に、何故か緑の瞳がある。何度か瞬いてよく見ると、ランプの明かりに照らされた金色のくせ毛もわかる。
「ナッシュ……?」
 名を呼ぶと、ナッシュは大仰にため息をついて肩を落とした。
「あーよかったぁ……もうびっくりさせんなよ。月蝕のときは体調が悪くなるってきいていたけど、こんな風に倒れるなんて思ってなかったぜ」
「うむ……そうじゃったのう」
 ナッシュの台詞で、シエラは思い出した。
 そうだ、今夜は月蝕だったのだ。
 月の紋章を宿しているシエラは、月に影響されることが多々ある。その中でも最悪なのが月蝕だ。
 普段とはちがい、急速に月の光を遮るこの影は、真の紋章の暴走を押さえ込むシエラの理性さえも蝕んだ。
 だからシエラは体調が悪くなる、と予告して宿を取り、今夜の看病をこの男に命じていたのだ。
「月も元に戻ったし……あんたも大丈夫そうだな」
 男は、心底安堵の表情を浮かべる。シエラはぎこちなく笑った。
「すまぬな」
「謝ることじゃないよ。何か、欲しいものはあるか?」
「今はいい」
 そうか、と言うとナッシュはシエラの傍らに座り込む。
「今回の触は大きなものじゃったのか?」
 ふと、夢の内容を思い出してシエラは言った。今回はいつもより闇の浸食が激しかった気がする。
「ああ……皆既日食だったそうだ」
「そうか、道理で……」
 ナッシュは心配気にシエラを見ている。その子犬のような目を見て、シエラは笑った。
「こりゃ、心配せずともよい。触が終わればもとに戻るのじゃから」
「あんだけうなされてりゃ誰だって心配するよ! ったくあんたって人は」
 ふてくされてベッドに顔をつっこんでいるナッシュを見下ろして、シエラはもうひとつ夢の内容を思い出す。
 そういえば、シエラを護ったあの声は。
「ナッシュ……おんし何ぞ歌でも歌ってはおらんかったか?」
 がば、とナッシュは顔をあげた。
「……え、嘘。聞こえてたのか?」
「夢うつつにのう……なつかしい子守歌じゃ」
 くすくすと笑うと、ナッシュは顔に朱をちらしてそっぽをむいた。
 自分の行為が、気恥ずかしかったらしい。
「……その、うなされてたから、少しは落ち着くかと思って……無駄かなーとは思ったんだけど、さ」
「昔、妹御にでも歌ってやったのかえ?」
「あんたとユーリは違うけど、看病なんてそれくらいしかやったことなかったからな」
 あさっての方向を向いたナッシュの耳は本当におもしろいくらい赤い。
「嫌なら嫌でいーよもう……」
 ふてくされたナッシュの袖を、シエラはくい、と引いた。
「ん?」
「もっと」
 言われて、ナッシュはシエラをまじまじと見た。
「……え」
「もっと、と言っておるのじゃ。早うせい」
 命令しながら、それでも穏やかなシエラの表情を見て、ナッシュも笑う。
「あんたが望むなら、何度でも」
 そして紡がれた歌声に身をゆだね、シエラは再び眠りへと落ちていった。

30000ヒット記念企画リクエスト大会
黒乃様のリクエストで「子守歌を歌うナッシュ」です。
最初の夢の部分がちょっと長かったかなあ……?
シエラ様のあまえた感じが
自分では気に入っていたり
いかがでしょうか?

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