彼の無意識

「パーシヴァル、ボルス! アレ、まだ残ってるか?」
 パーシヴァルの部屋のドアを開けながら、クリスが言った。ノックもせずに進入してきた乙女に部屋の主は目を丸くする。
「これはこれは、また可愛らしい姿で」
「ほめなくていい。それより、アレは?」
 言われてパーシヴァルは手の中にあるワイングラスを軽く持ち上げる。
「残念。このグラスにあるだけになってしまいました」
「あー……っ」
 クリスはがっくり、と肩を落とした。
 十一月。
 夏にとれた葡萄をつぶしてワイン樽につめて三ヶ月。
 ゼクセでは、これらのワインのいくらかを早々に味見する習慣があった。
 もちろん、たった数ヶ月しかねかせていないので、何十年もねかせたワインと比べれば風格は劣る。だが、今年とれた他のワインの質を占う重要な材料でもあるし、その独特のフルーティーな味わいにもファンは多い。
 季節ものなので、当然そう出回ってはおらず、ワイン好きのボルスが何本か手に入れたというので、三人で飲もうと約束をしていたのだ。
 だがその直前、クリスに召集令状が送られてきた。
 オーダーは「ハルモニア高官の接待につきあえ」
 評議会のいつもの無茶なお願いである。
 酒が飲みたいから休ませてくださいなどとは当然言えず、しぶしぶドレスアップして出かけたのが……つい四時間前だ。
 今年は当たり年ときいて、前々から楽しみにしていたのでどうしても飲みたくて、ドレスも脱がずに戻ってきたのだが間に合わなかったらしい。
 胸のあいたドレスだというのに、その格好で床にしゃがみ込んだクリスの頭を、パーシヴァルがぽんぽん、と叩く。
「まあまあ。明日には、イクセからもう一本ワインが届く予定ですから。明日しきり直しをしましょう?」
「え? そうなの?」
「でなければ、ボルスも私も、飲んだりしませんよ」
 くすくす、とパーシヴァルはワイングラスを持ったまま笑っている。
「ありがとう。……って、そういえばボルスはどうした。部屋にいないが」
「……そういえばって、今まで忘れてたんですか?」
「あ、いやその」
 慌てるクリスに、パーシヴァルが笑う。
「貴女が来られなくなったのでぶーたれてワイン二本あけてつぶれたので、部屋に帰しましたよ」
 ほら、と言われて見てみると部屋の隅に空瓶が三本転がっていた。彼らだけであけたらしい。
「ボルス、かわいそうに……その存在はワイン以下ですか」
「い、いやそうじゃなくてだな、そっちが気にかかっていたというか」
「やっぱりワインが上じゃないですか」
「……〜〜〜お前酔ってるだろう」
「ええ」
 ワイン一本あけて、この男もまた上機嫌に酔っているらしい。顔色はそんなに変わっていないが、笑うその顔がいつもより数段楽しげだ。
「今日作るつもりだったつまみの材料を、明日用に残してありますから、楽しみにしていてください」
「あ、うん」
「……今日、飲みたかったですか?」
 クリスに、パーシヴァルが笑いかける。
「う。どうしてわかった!」
「顔に書いてありますよ。ではクリス様、このグラスにあるのでよければ味見だけしますか?」
「え」
 す、とワイングラスを高く持ち上げられ、クリスは動きを止めた。
 それは、彼が今飲んでいたワイン。
 つまり。
 
 どきん。

「さ、どうぞ」
 大きく波打ったクリスの鼓動に気づかず、パーシヴァルはナプキンでグラスの周りをぬぐって差し出した。
 あ、もったいない。
 心の中でつぶやいた言葉に、クリス自身余計に混乱させられる。なんとかグラスが受け取れたのは奇跡に近かった。
 彼の、グラス。
 戦場では、女であろうと男であろうと回し飲みなどはいつものことだけれど。
 こんなおちついた部屋で、こんな綺麗なグラスだと、どうしても意識してしまう。
(落ち着け、自分)
 クリスはグラスを握る手に力を入れた。
(たいした、意味はないのだから)
 彼にとって、自分は仲間。とりまきの一人ですらない。
 それはそれでおいしい位置なのだろうけど、恋愛感情は余計遠くなる。
 女らしい魅力などかけらもないのだから、と日頃から押さえてきたけれど、こういう状況になると感情があふれて出てきそうで。
「クリス様?」
「あ、いやなんでもない。色、綺麗だな」
「ええ。今年は特に葡萄の赤が鮮やかなんです」
 酔った男は気づかない。
 クリスは、鼻の前でグラスを軽く回した。花のような甘い香りが鼻腔を満たす。若いワイン独特の香りだ。
「香りもいい……と、味は……」
 その跡など、かけらも残っていないグラスを見やってから、クリスは思いきってグラスの中身を口に入れた。
 ふわりとした甘い香りと酸味。味わいよりも、先に香りで酔ってしまいそうだ。
 それよりも、彼に?
「……ちょっと、酸味が強い、かな?」
 なんとか絞り出した感想に、パーシヴァルは眉をあげる。
「そうですか? 私はこれくらいが好みですが」
 言って、ひょいとクリスからグラスをとりあげる。そして。
「あ」
「……うん、あけて時間がたったから酸化したみたいですね」
 クリスからとったグラスから、間髪入れずにワインを飲んだ男は首をかしげた。
 その仕草に、一気に恐慌状態に落とされたクリスは固まるしかない。
 偶然かわざとか、クリスが飲んだ場所からワインを飲んだパーシヴァルの唇。
 ドレスのままここに来たせいで、グラスに移ったクリスの口紅は、それから更にパーシヴァルにも移り、その形のよい唇をうっすらと彩っている。
(グロスリップなんてつけるんじゃなかった……)
 慌てて視線をそらせたけれど、やっぱりパーシヴァルを見ないわけにいはいかず、しかしそうすると一部分だけ赤くなった彼の唇が否応なしに視界に入る。
「パーシヴァル……その、唇に……」
 とぎれとぎれに注意を促すと、パーシヴァルはやっと気づいたらしい。グラスに目を落として、それから窓ガラスに映った自分の姿を見て笑う。
「ああ、これじゃ私が貴女にキスしたみたいですね」
 つい、とぬぐいながらこぼれた言葉に、クリスは耳まで赤く染まる。
「き、きききききききキスって、お前なあ」
 見上げると、パーシヴァルの唇が苦笑している。女性のそれとはまた別の色に色づいた、形のよい、柔らかなそれ。
 自分の唇でうけたら、きっとそれは。
「ご迷惑でしたね。すいません」
「いや迷惑じゃないが……」
「え」
 口走った言葉に、クリスは耳どころか首筋まで赤くなった。
 恥ずかしくて死にたい。
 でも、言った言葉はもう消せない。
「クリス様」
 ふと視界が翳った。
 目の前に、パーシヴァルの顔がある。もちろん唇も。
「キス、しませんか?」
「え、ええ?! なんで!」
「私が貴女を好きだから」
 クリスは座り込んだまま、後ずさった。それを追ってパーシヴァルも移動する。
「気づいてないなんて、言わせませんよ? ボルスと二人、ずっと貴女を見ていたこと」
「初耳だ!」
 叫んだ台詞に、パーシヴァルの唇がへの字に曲がった。
「嘘」
「う、う、嘘じゃない! お前が私のことをだなんて、知ってたら」
「知ってたら?」
「聞くな!」
「聞きたいですよ」
 パーシヴァルの顔は、もう間近だ。後ずさった背中が壁に当たってクリスはそこで止まっている。横に逃げようとしたら、パーシヴァルの腕が完全に遮っていた。
「クリス様」
「なんだ!」
「私が好きでしょう……?」
「……〜〜なん、でっ、そんなことが」
 パーシヴァルの吐息が、かかる。それは、今飲んでいたワインと同じ香りがした。
「では聞きますが、何故ワイン一つにあんなに緊張していたのです?」
 吸い込まれそうな、深い黒いまなざしがクリスの瞳を射る。
「貴女の唇の触れたグラスに私が触れたくらいで、そんなにどきどきするのは、何故?」
「気づいて……?!」
「気づいたのは今です。酔うとだめですね、鈍くて」
 くすくす、とパーシヴァルが笑う。愛してます、と繰り返されてクリスが声をあげた。
「私は、お前の周りにいる女ほど可愛らしくもないし、いい女でもないのだぞ! なんで」
「なんで? 訊くほどのことじゃないですよ。私にとって、貴女ほどいとおしい女はいない」
「……」
 パーシヴァルの唇が、また近づく。
 触れる、程に。
「キスして、いいですか?」
「……っ」
 クリスに否やはなかった。

ライン

30001ヒット記念。
あすみさんのリクエストで
「パーシヴァルの無意識の誘惑にめろめろのクリス様」
パーシヴァルって、クリスがいるだけで、
彼女の視線を意識していそうなので、
ちょっと酔っぱらってもらいました。
ヌーヴォーワイン、そろそろ解禁日ですよねー。

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