赤ちゃん騒動

 太陽暦477年12月3日。そのとき、一番不幸な人間を挙げてくれと問われれば、きっとティント共和国大統領官邸警備兵達が挙げられるだろう。
 平和な炭坑国の警備兵を襲った災難は、かなり唐突なものだった。
 最初の知らせは、音だった。
 なにやらものすごい地響きのような音が聞こえたのだ。
 何事かと思い、高台の上にある官邸の前庭から各々岸壁の下を見てみる。
 そこにはあり得ないほどの速さでもって走る一群があった。
 数にして一個小隊ほどだろうか。この辺りではみかけない、やや毛足の長い馬に乗り、皆一様に青い軍服を着込んでいる。
 青い軍服。
 実際に見た人間は少なかったが、その青という色には皆覚えがあった。
「おい……ハルモニアなんじゃないのか?」
 兵達のうちの一人が言った。
 全員ごくりと唾をのむ。間違いは、なさそうだ。
 と、同時に彼らの来訪を何故誰も聞いていないのか、伝令や見張りに対する不審が一気に広がる。
 ここはこの国の中枢部。小隊とはいえ、他国の人間が来ればさすがにわかるように警備をしいてある。
「なんで……?」
 しかし、彼らの疑問は目の前の危機にかききえた。
 馬の群れが官邸の前にある険しい坂を一気に上り、彼らの目の前に突っ込んできたからだ。
「止まれ!」
「止まれー!」
 己の使命を思い出し、警備兵達は槍を手に馬の前へと立ちふさがる。
 間に合うかどうか、踏みつぶされることを覚悟した彼らの鼻先で馬は大音声でいななき、後ろ足立ちになって止まると、どん、と目の前に前足を踏み降ろした。
 馬の鼻面から吐き出される荒い息が彼らの顔をなぶる。
「……っ!」
 今まさに死にかけた恐怖に、最前に立っている兵の顔は真っ青だった。
「……言われた通り、止まったぞ」
 頭上から、声がかかった。
 どうやら乗り手の声らしい。少年のような声に訝って顔をあげた兵達は、無謀にも扉に突っ込もうとした乗り手の姿に絶句した。
 小柄な少年だったからである。
 しかも、淡い茶の髪に、透き通るような緑の瞳をしたとびきりの美少年。
 暴挙と姿がつながらず、兵達はぽかんと口をあける。呆然としていると、少年の後方でやはり馬を止めたハルモニアの将校が、慌てて馬を降りて少年に走り寄った。
「ササライ様、乱暴にすぎます!」
「怪我人は出てない」
「そういう問題ではないでしょう!」
「あの……」
 まだ、少年よりは言葉が通じるかもしれない。
 兵の一人が将校に声をかけた。将校は振り向きざまに居住まいを正す。
「失礼いたしました。私はディオス、そしてこちらはハルモニアの神官将であらせられるササライ様でございます。大統領令嬢でいらっしゃいますリリィ=ペンドラゴン様を訊ねて参りました。どうぞ、お取り次ぎを」
「……な……ササラ……リリィお嬢様に……ですか?」
「そうです。お取り次ぎを」
 冗談かと思ったが、将校は大まじめだ。
 ハルモニアの有力者、ササライ。十五年前のデュナン戦争にも参戦していたせいで、名前だけは皆知っている。
 だが、そんな有力者が国主であるグスタフではなく、リリィを訊ねてくるのがわからない。そういえば、お嬢様はハルモニアに留学していたという話だったが。
「取り次げ、と言っている」
 冷ややかな声が兵に投げかけられた。彼らを見下ろす少年の視線にあるのは紛れもない殺気。
 そのとき、パニック一歩手前だった兵達の元に、助け船が現れた。
「どなたのご来訪でしょうか」
 ぎい、と官邸の入り口があき、人が一人出てきた。
 三十になるかならないか、特徴的な鷲鼻に大きな黒縁眼鏡をかけた柔和な青年である。
「私はこのティント共和国の大臣、マルロと申します」
 少年期に戦争を体験し、英雄を間近で見たせいか、青年は肝が据わっている。柔和に微笑む青年を一瞬睨んだあと、少年は馬から降りた。
「私はハルモニアの神官将、ササライ。リリィ=ペンドラゴン嬢にお会いしたい。お取り次ぎをお願いできますか」
「リリィお嬢様にですか? ご面会でしたら、事前にご連絡を下さればお出迎え致しましたのに」
「火急の用でして。お願いできますか?」
 ササライがマルロを睨む。
 同時に、ぴしりと音がして鉱山全体が震えた……ような気がした。
「しかし……」
 マルロが尚も逡巡しようとしたとき、また官邸の扉が開いた。今度は、髪を逆立てた和服の青年が顔を出す。
「おいマルロ! グスタフ大統領がそいつに会うってさ!」
「コウユウ……! それは本当ですか?!」
「俺が嘘言ってもしょうがないだろうが」
 そのやりとりに、ササライの顔がまた険しくなった。
「私が会いたいと申し上げているのはグスタフ殿ではなくて、リリィ嬢なのですが」
「んなの知るかよ! とにかくグスタフ大統領が会いたいって言ってんだから来いって!」
 一瞬、このままコウユウが殺されるのではないだろうか、というくらいの殺気が、辺りに放たれた。
 ごごん、という鈍い音がして、わずかに鉱山が揺れる。
「あ? やる気かよ」
「別に。わかりました、いいでしょう。グスタフ殿に会わせて頂きます」
 少年はすっと馬から離れると、後ろに控えるハルモニア兵達に向かった。
「これから大統領と会ってくる。貴方達はそこで待機しているように!」
「はっ!」
 一糸乱れぬ敬礼を返し、下馬して整列を始めたハルモニア兵を見て、この集団を見張り続けなければならないのか、と兵達は悲鳴ににたため息をついた。

「お前がハルモニアのササライか」
 玉座に座るティント大統領グスタフ=ペンドラゴンの第一声に、ササライは静かに頭を下げた。
「はい。お嬢様にご面会させて頂きたく参りました」
「ならん」
 グスタフの言葉は素っ気ない。
「ならん……とはどうしてでしょうか」
 表向き、穏やかな表情のまま、ササライはグスタフを見つめた。しかしグスタフは五月蠅そうに首を振る。
「ならんといったらならん。ふん……取引なら俺一人とすればよかろう?」
「取引などではありません。私は、私個人としてお嬢様に会いたいのです」
「ならば父親として言う。会わせられん」
「何故です……」
 理不尽なほどの否定に、今度はササライがはっきりとグスタフを睨む。
「わからないのか?」
「ええ、わからないからここまで来たのです」
 言うと、グスタフはそっぽを向いた。
「なら余計に会わせられん」
「ほう……?」
 ぴし、と官邸全体が小刻みに揺れた。
「娘がお前の元を去った理由がわからないんだろう? いい気味だ」
 言うと、グスタフは立ち上がった。
「話はこれまでだ。帰ってくれ」
 ハルモニアの権力者に対してあまりにぞんざいな扱いに周りの者が息を飲む。
 そして、その様子に衝撃を受けたのはササライも同じだった。青ざめて強ばっていた顔が紙のように白くなる。そして、恐ろしく低い声が柔らかな唇から漏れた。
「親子ともども……とことん説明をしないで。それで納得できるわけがないでしょうが」
 びしり。
 部屋全体の空気が鳴動したかと思うと、石壁にひびが入った。
「もういいです! 彼女には勝手に会わせてもらいます!!」
 叩きつけるように宣言すると、ササライは踵を返した。警備兵が止めるのも構わず(どころか全て吹っ飛ばして)謁見室から出ると、ずんずん廊下を歩いていく。
 頭の中には、金髪ナンパ親父なスパイから入手したティント大統領官邸の地図がたたき込まれている。それに従えば、リリィの部屋まではそう遠くない。
「ったく、これで納得する男に僕が見えたのなら、ひどい思い違いだ!」
 ことの発端は、一ヶ月前。
 数ヶ月の遠征から帰ってくると、ササライの家に居候しつつハルモニアに留学していたリリィの姿がなかった。
 彼女の部屋には書き置きが一枚。
『飽きたから帰るわ。じゃ』
 使用人達に問いただしてはみたものの、理由を知っている者は皆無。
 気がついたら、書き置き一つだけで消えてしまったのだそうだ。
 帰る、ということは恐らく行き先はティント。
 そこまで考えてから、ササライはその書き置きをばらばらに裂いた。
 全然納得できなかったからだ。
 彼女がこの程度の理由で出て行くわけがない。
 人一倍情の深い彼女が、愛した男の元を、そんな理由で。
 ならば、リリィがササライを愛していなかったのだろう、そんな結論もないではない。
 だがリリィが自分を愛していたことは、うぬぼれでもなんでもなく、ササライは知っている。
 それは間違いない。
 でなければ、あの気位の高い彼女がササライに身を任せることも、共に暮らすこともするはずがない。
 なのに、何故。
 そして、書き置きを見つけたときの憤りと不満そのままに、ササライはティントまで全速力で駆けてきたのだ。
 廊下の最奥の扉を蹴飛ばすと、ばん! という音がして扉が開いた。
「な、ななななななな、何よ! 何だってのよ! ハルモニアだかなんだか知らないけどリリィちゃんを苛めるなら、あたしが相手よっ!!」
 入ったとたん、三十がらみの元気のいい女性に節棍を向けられて、ササライは機嫌が更に悪くなるのを感じた。
「どけ……」
「嫌よ!」
 ササライの指輪が凶悪な光をともす。
 彼女の国の人間だから、殺す気はないが、邪魔をするのなら容赦はしない。
「ナナミお姉ちゃん、もういいわよ」
 部屋の奥から、穏やかな声がかかった。びくりとササライが反応する。
「でもリリィちゃん……」
「いいの。もうこれ以上逃げようがないし」
 女性は棍を降ろした。
 それにあわせるように、部屋の奥から、ずっとササライが探していた女が出てくる。
 豊かな栗色の髪、気の強そうな菫色の瞳、そして花の紅を落としたような唇。
 顔は記憶そのまま。けれど、ある一部分において、彼女は予想外の変貌を遂げていた。
「リリィ……さん?」
 ササライは、それだけ言って絶句した。
 女性としては、ほっそりとしていたほうのリリィの腹は、あり得ない曲線を描いていた。いや、女性としては、ある意味自然なまろいライン。
「何よ、ササライ」
「リリィさん……そのお腹はもしかして」
「もしかして何だと思ってるのよ」
「子供……が……いるの……ですか?」
「いるわよ」
 一瞬の間。
 ササライはやっと、ティント共和国の人間全員が自分に冷たかった理由がわかった。
 娘が妊娠させられて帰ってきたら、そりゃ誰でも怒る。
「私は産むわよ」
 言って、リリィに目をそらされて、ササライはそこでキレた。
「貴方妊娠初期の一番不安定な時にティントまで旅をしたんですか!」
「え……いや……その」
「無事だったからよかったものの! 流産して親子共々死んでたらどうするんですか!」
 怒鳴りつけられて、リリィは目を丸くする。
 ササライはリリィの手をとった。
「そんなに慌てて警戒して……私が、貴方から子供を取り上げるとでも思ったのですか?」
「それは……」
 ササライはため息をもらす。
 恐らく図星なのだろう。
「私が自分の出生を嫌っていたことは確かですけどね。ですが……私が、貴方と、貴方の子供くらい守れない男だと? その程度の男だと?」
「ササライ」
 ササライは、リリィの手を引いて抱きしめた。
「リリィさん、貴方と、私達の子供を守りたいです」
 そのつぶやきの迷いのなさに、リリィは驚いて、それからやっと頷いた。

「でも意外だったわ」
 荷造りをするササライの隣で、リリィがつぶやいた。
「何がですか?」
「あんたの反応」
「そうですかね?」
 あまりいいとは言えない手つきで、ササライは服を詰める。無茶な扱いに、荷袋が悲鳴をあげた。
 ササライは、数日間の滞在のあとハルモニアに戻ろうとしていた。
 といってもリリィを見捨てるわけではない。
 先にハルモニアに帰り、彼女を受け入れるための様々な手続きを整えておくためだ(彼はグスタフに頭を下げさえしたらしい)。準備を整えた来年の夏には三人でハルモニアに落ち着いていることだろう。
 いそいそと他の荷物をまた荷袋に突っ込んでいるササライを、リリィは不思議そうに見る。
「あんたってさ、子供が出来たって知ったら、もっと怖がると思ったのよね」
 人格の善し悪しはともかく、ササライがヒクサクに作られた命であること、そしてササライがそれを疎んでいることも事実だ。
 だから、その遺伝子がリリィに受け継がれていくことに対して少なからず思うことはある、とリリィは思っていたのだが。
「でも、リリィさん」
 予想外に落ち着いた顔でササライが笑う。
「嬉しいって思っちゃったんだから、いいんじゃないかと思うんですよ」
「ササライは嬉しいの?」
「ええ」
 ぎこちない手つきで、ササライはリリィの腹に触れる。
「ここに、私と貴女との……そうですね、言い方はものすごくクサいですけど、愛情の結果があるわけでしょう? そう思ったら、もう嬉しいって気になっちゃって。だったらもういいかなって」
 そう思えたのは、実際貴女の大きくなったお腹を見たあとですけどね。
 苦笑するササライに、リリィもまた笑った。
「私も、実は子供ができて嬉しかったの」
「そう」
 二人は抱きしめ合うと、次に会うための別れに微笑んだ。

ライン

十万ヒット記念企画
「赤ちゃん騒動」

もお直球で「赤ちゃん」の「騒動」です。
そりゃグスタフさんもキレぎみになるってばさ……。

個人的に、ササライさんって自発的に子供作ろうとは
しそうにないイメージがあるのですが、 どうでしょう。


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