ハルモニアの大都市、クリスタルバレー
金色の髪をした貴族ばかりが住む高級住宅街だ。もっとも、住宅ばかりでは生活に不便であるため、商店やインフラ設備など、最高のものが美しく、かつ機能的に配置されている。
その設備のうちのひとつが、今私のいる図書館だ。
蔵書数、数百万冊とも数千万冊とも言われるその巨大な施設は、二等市民以上であれば誰でも自由に出入りし、本を借りることができる。レンタル料はただ。……まあもっとも、その維持費とやらは税金からまかなわれているのだが。
数冊の本を片手に、私はカウンターへ向かう。
ここへは、任務を始めてからずっと週一で通うことにしている。
こつん、と返却カウンターの机を軽く叩くと、むっつりとした顔で本の整理をしていた司書が顔を上げた。
「本の返却をお願いします」
「ああ、あなたですか」
司書は、返された本を、確かめる。返却期日が切れていないか、などを確認しているように見えるが、そうではない。本に忍ばせた指令書を、私が確実に受け取っていることを確認するためだ。
「やれやれ、今日はちゃんと返してくれたようですな」
「すいません。あんなことは二度としませんから」
私は頭をさげた。あんなこと、とは先日ナッシュに本ごと指令書を燃やされてしまったことだ。
「……まさか燃やされるとは思ってませんでしたよ。ラトキエのぼっちゃんも、ろくなことをしてくださらない」
「以後、気をつけます。……それで、また聞くのは気が引けるのですが……何かおすすめの本、入ってませんか?」
司書は、器用に方眉をあげると、机の下からハードカバーの本を二冊、取り出した。
「これなんかどうですか? 百花絵図と、鳥類生態観察論」
「ああ、いいですねえ。お借りできますか?」
「いいですよよ。ちょっと待っていてください」
司書は、てきぱきと貸し出しの手続きをとると、私に本を渡した。私は、本の内容を確認するふりをして、そこにあるはずの指令書の存在を確かめる。
よし、いつもどおりだ。
そのまま立ち去ろうとした私を、司書が呼び止めた。
「そうだ、実は、私の女房が風邪をひいてしまいましてね」
「それは心配ですね」
「看病で忙しくなりそうだから、しばらくおすすめは置いといてあげられないかもしれないです」
「そうですか。では、お大事に」
ぺこ、とまた頭を下げて、私はその場から離れた。
おすすめが置いておけない。ということは、指令書の受け渡し方法が変わってくるということだ。こういった事態はよくあることだから、対応はすぐにできるが、何故そんなことになったのだろう。
指令書は間違ってナッシュに燃やされてしまったが、そのことに関して、当のナッシュには気付かれてはいない。だから、ことさら変える必要は感じていなかったのだが……。
しかし、その理由はすぐにわかった。
図書館を出る前に、本棚を少し眺めようかと思って足を向けたときだ。
「ナッシュさん、もっと右ですよ!」
少女の声が、私の動きを止めた。
……ナッシュ?
最大の疫病神の名前に、私は顔をしかめる。このまま立ち去るのが心の平穏のため、とは思ったが、見過ごすこともできない。私は少女の声のしたほうを見た。そちらからは、のんきな青年の声も聞こえてくる。
「よ……っと。これで全部本は納まったな」
「私じゃ手が届かなくて困ってたんです! ありがとうございます、ナッシュさん」
「いいって。この本も持とうか? 倉庫に持っていくんだろ?」
「いいんですか?」
瞳をきらきらさせながら、(頬も少し赤い)図書館の小間使いらしい少女が見上げる先には、確かにナッシュがいた。極上の金の髪、エメラルドの瞳。間違いない。
……だが。
何がどういういきさつで、ねずみ色のツナギに軍手、そのうえタオルはちまきな格好で図書館に居るんだ、あの坊ちゃんは!
私を、強烈なめまいが襲ったのは、無理からぬことと思われる。
その場で力が抜けていく膝と格闘していると、疫病神は私の姿を発見したらしい。
「あっれー、ザジじゃん。どうしたんだ? こんなところで」
そうききたいのは私のほうだ。
「本を……借りに」
「ああ、そういやあんた本が好きなんだっけか」
もとは少女が持つ荷物だったらしい、本の入った箱を抱えて、ナッシュは近寄ってきた。少女が不思議そうに私とナッシュを見比べている。
「ナッシュさん、その方とお知りあいなんですか?」
「ああ、ミルテ。まあダチみたいなもんだよ。先行っててくれる?」
「わかりました!」
少女が走り去るのを見送ってから、私はため息をついた。
「……ナッシュ様、貴方のような方がどうしてここに? しかもこんな格好で! 旦那様が見たら卒倒するのでは?」
「その親父のせいでここにいるんだってば」
へらへらと笑いながら、ナッシュが答えた。
おやじのせい、というその台詞に、私は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
まさか、ナッシュは党首の命令でここに調査にきたとか? だとすれば、組合の連中が個々での動きを止めたのも理解できる。
計画がばれたかもしれない。
その恐怖に私は大急ぎで次善策を練ろうとした。
が。
「ほら、この間あんたの本を盾にしちゃっただろ? その本の代金、小遣いからさっぴかれちゃってさ。今ほとんどオケラなんだ」
「……は?」
予想外の答えに、私の思考は一瞬、止まった。
「それで、今ここの作業員のアルバイトやってるんだ。体力勝負だけど、結構実入りいいからなー」
あはは、と半ばやけ気味に、ナッシュは笑っている。
アルバイト?
貴族の子弟が……?
こんな図書館で?
この間燃やされた本の値段を、私は頭の中で計算してみる。庶民にとって、本は確かに高価なものだが、それはやはり庶民にとってのこと。貴族にとっては、そこらへんのちり紙と大差ないはずである。その程度でおけらになるのだとすれば、ナッシュの小遣いとやらは、本当に学生のお小遣い程度でしかない、ということになるが。
「随分、厳しいお父様ですねえ……」
これくらいは普通の疑問だろう。言うと、ナッシュがむくれた。
「そうそう、そうなんだよ! 世間の厳しさを知れとか言ってさ、小遣いはくれねーわ、変なところに修行にだすわ、スパルタにもほどがあるっつーの! おかげで、どこ行っても死なない自信はついたけど、なにか間違ってる気がしないか?」
「……はあ、かも、しれませんねえ」
それ以外にどう答えろと。
「って、ぐちっても始まらないか。じゃーな、俺もう行くわ。そろそろ昼食の時間だしな」
本の箱を抱えなおして、ナッシュが立ち去ろうとしたときだ。
ぐうううううぅぅぅぅぅぅっ。
盛大な音が、静かな図書館に鳴り響いた。
「お、悪い」
ナッシュが苦笑いになる。
…………。
今の音は。
…………まさか。
「やっぱミルクいりのシリアルじゃあんまりもたないなー」
腹の音なのか?
口を閉じてそれなりの格好をすれば理想の王子様なのに、うらやましいくらにお綺麗な見てくれをしているくせに、…………その腹の音はなんだあっ!
一瞬、怪獣の鳴き声かと思ったぞ!!
「朝はやっぱりご飯じゃないと、腹にたまらないなあ。うん、明日はゾフィーに言って、納豆ご飯にしてもらおう。じゃあザジ……」
ぐうううううぅぅぅぅぅ。
ナッシュの挨拶は、再び腹の音に遮られた。
「ナッシュ様」
「ん、何?」
「お昼は、どうするおつもりで?」
「あんまり金ないから、実は抜いちまおうかと……」
つまり、午後じゅうそのはた迷惑な音を撒き散らす予定だと。
私は、心の中で散々迷った後、ナッシュの肩に手を置いた。
「そこの店でご一緒しませんか? おごりますよ」
言うと、ナッシュはぱあっと顔を輝かせた。
私は怒鳴り付けたい衝動を必死に抑える。
その心臓に悪い胃袋をどうにかしろ、この馬鹿!!
ナッシュ、今日の戦利品…………大盛りランチ
え〜〜〜〜と、
どんどんナッシュが貧乏くさくなっています。
しかも意地汚いです。
……っていうか、かっこいいナッシュが好きな人には
もう異次元のキャラクターですね
>戻ります