その日、庭の裏を通らなければ、私の運命は変わっていたのかもしれない。
さくさくさく……。
裏手であっても、手入れの行き届ききった庭の芝を踏みながら、私は歩いていた。
私の名はザジ。
ハルモニアに存在する秘密結社「ほえたける声の組合」に所属する従者級ガンナー……つまり工作員だ。暗殺者と言っていい。
ほえたける声の組合というのは、国や個人に金づくで殺人以来などを請け負う、暗殺者ギルドのことだ。その規模は大きく、ここハルモニアだけでなく、大陸全体のなかでもかなりの勢力となっている。私はその駒の一人だ。
依頼されたターゲットを発見し、隠密裏にその命を奪い、消える……そんな短期の仕事が通常の任務の中、今回私の請け負っているものは少々毛色が違っていた。
民衆派の名家、ラトキエ家をのっとれ。
これはハルモニア内部で勢力を拡大しようとする組合自身の計画だ。
現在私は、三等市民という最低の身分を隠し、髪と瞳の色まで変えて、家庭教師としてラトキエ家に潜入している。ラトキエ家の二子、長女ユーリに接近し、あの手この手でたぶらかし、ゆくゆくは……というあまり品がいいとは言えない計画だ。まあ、品のよしあしなど、駒には関係ないが。
世間知らずのお嬢様、ユーリさまは、「お人よしでちょっと抜けたところのあるザジさん」がことのほかお気に入りになられたらしく、今日などは、手作りのお弁当までもらってしまった。
計画は順調。だが、気を抜いてはいけない。
現当主は民衆派のリーダーを張るほどの切れ者であるし、第一子である長男ナッシュにはまだ会ったこともない。留学中という話だが、どこに留学しているのか、それがいまいちつかめていないのだ。
さくさくさく。
木々の間を縫うように歩く。
この広大な森のような庭は、人目につかない場所が多い。おかげで、組合の連絡員とも会いやすい。妙な場所から出て着てもおかしくないように、「方向音痴のくせに近道をしたがって道に迷う間抜けなザジさん」というキャラクターもつくってある。
今ここを歩いているのも、そのキャラづくりの一環だ。
さくさく。
あと少しで門扉、というところで私はぼろ雑巾を発見した。
いや、ぼろ雑巾のようなもの、といったほうが正しいか。
人間大の大きな緑の物体が転がっている。整備された庭には、まったくそぐわない。
しゃがんでよく見ると、それはやはり人間のようだった。手足、それから頭がちゃんとついている。
もとは緑だったのだろう、泥と埃にまみれてずず黒くなったマントに、本当に雑巾みたいなマフラー、頭は……おや、ぐしゃぐしゃなうえに汚れているが、髪は金のようだ。
浮浪者にしてはずいぶん上等な髪の色だ。
このハルモニアで色素が薄いということは、上流階級に属しているということを意味する。
私などは、その身分を装うためにもとは漆黒だった髪を淡い色になるように脱色している。
しかし、もとは上流階級だったが政変のあおりをうけてこれ以上ないというくらい没落してしまった家というものもある。おそらく彼もそんな口だろう。
この家に倒れているということは、昔縁があったか何かで無心に来たとか……。
私は思案顔になった。
優しくてちょっと抜けたザジさん、を演じている私としては、見過ごしていってはいけない。とりあえず生死を確かめて、死体だったら派手に叫び声をあげて母屋に助けを求め、生きていたら大慌てで家に担ぎ込む……そんなところだろう。
『ぼろ雑巾』の首筋に手をあて、私は脈をとる。
……ん、生きて……
がばあっ!
『ぼろ雑巾』がいきなり起き上がった。そして、私にしがみつく。
「う、うわあっ!」
我ながら、情けない叫び声は「ザジさん」としては正しい反応だったが、半分以上演技ではなかった。ふりほどこうとしたが、『ぼろ雑巾』は予想外に腕力がある。
「は、……はなして……っ!」
「……めし」
「……はあ?」
「めし。はら……減った……」
「腹?」
……つまり、飯をよこせと。
一瞬、このまま首の骨を折って、どこかに埋めてしまいたい衝動に駆られる。
だが、さすがにそれはまずい。
どうしようかと引きつった顔でためらっていると、相手は獲物を発見したらしい。ふんふん、と鼻を鳴らすと(犬かお前は!)しがみつかれたときに放り出してしまった弁当箱を発見した。
伸びすぎて顔を半分隠してしまっている金髪の間から、緑の瞳が哀れっぽく私を見つめた。
「飯……くれ……」
「い、いいですけど」
おそるおそる差し出すと、『ぼろ雑巾』はものすごい勢いでそれを食べ始めた。
マナーもなにもあったもんじゃない。まさにかっこむ、と表現するにふさわしい勢いで弁当を胃袋に収めていく。
「やー、門をくぐるとこまではなんとか歩いたんだけど、さすがにそこで力尽きちゃってさあ」
口の中にものをいれたまま、『ぼろ雑巾』は語る。
「まったくオヤジもひどいよな、いきなり帰ってこいって呼び出したくせに、路銀もほとんど送ってこないんでやんの。おかげで最後の三日は飲まず食わずだよ」
「……はあ」
まったく話が見えない。
「あんたのおかげで助かったよ。えっと、あんたは……」
「……」
どう返答しようか、少々迷ったときだった。
「おぼっちゃま!」
庭の向こうから声がかかった。振り向くと、女中頭のゾフィーがそのたっぷりとした巨体をゆらしながら走ってくる。
「あ、ゾフィー、ただいま!」
私が返事をするより早く、『ぼろ雑巾』がゾフィーに返事をした。
……って……おぼっちゃま?
私は思考が混乱するのを感じていた。ラトキエ家の女中頭がおぼっちゃまなどと呼ぶ相手、それは世界に一人しかいない。
まさかこの『ぼろ雑巾』が、
「ナッシュおぼっちゃま、こんなところで何やってるんです!」
「帰ってきたはいいけど、そこで腹へって動けなくなっちゃってさあ。ゾフィー、なんか食うもんない?」
「それより先にお風呂です! まったくもう、ラトキエの名が泣きますよ!」
「そんなの、ろくすっぽ金を送ってよこさなかった親父に言ってくれ」
「ご当主さまの悪口など許しませんよ!」
ゾフィーはひとしきり『ぼろ雑巾』に説教をすると、首根っこを捕まえて、そのまま母屋へと引きずっていった。あとには私一人だけが残される。
あれが……ナッシュ・ラトキエ?
切れ者の当主の秘蔵っ子で、良家のお坊ちゃんの?
「……この国の政治は間違ってる……」
私は、この日改めてそう思った。
ナッシュ、今日の戦利品…………ユーリの弁当
この話にはちょっといきさつがありまして、
先日、イベントにての会話なのですが
「金のあるナッシュって想像つきませんよね」
「でも、十代の若いころなら、貴族だし、持ってたんじゃないですか?」
「いやいや、吠え猛る声の組み合いに弟子入りさせるような父親が
簡単に小遣いをくれたとは思えない」
「ああ、お父さんががっちり財産握ってるわけですね」
「そうそう、だからお金なくて、ザジにたかってたりするんですよ」
「「か、かっこわるい……」」
イーヴンさん、約束通りSS化しましたよ……
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