それでいい

 夜空の漆黒を映し、やはり漆黒の闇色に沈む湖を、クリスはじっと見つめていた。
 空は新月の闇。辺りもやはり闇。
 日が落ちて久しいこの時間帯。いくら宵っ張りの多いこのビュッデヒュッケ城の住人達といえど、彼等のほとんどはもう眠りについていた。
 いつもは立ち回る人の気配で騒がしい船の甲板は、今や音も明かりもなく、ひっそりとした静寂に包まれている。
 その、闇と静けさに同化するようにクリスは、身動き一つせず、ただ佇んでいる。
 職務を背負う者ならば、自身の健康を守るため、眠りにつくのが当然の時間帯。しかし、彼女は眠れなかった。眠ろうにも、眠れない。だから、ここにいた。
 眠れない理由はいくらでもあった。
 父のこと、母のこと、故郷のこと、自分のこと、そして、この目の前に広がる大地のこと、大地に住まう民のこと。そして、犯した罪、手に入れたものに対する代価。
 ありすぎて、どれから悩めばいいかわからないくらいだ。
 右手に手を添える。そこからは、ひやりとした波動が伝わって来た。
(父さん……)
 父から、譲り受けた紋章。
 それは、形見であり、想いであり、重みである。
(父さん)
 ほろり、と涙がでた。あとからあとから溢れるそれは、すぐにクリスの頬を滝のように伝い始める。
 父を懐かしんでの涙ではない。なくしたことへの悲しみでも、ましてや怒りでもない。強いて言えば、今まで押さえ込んでいたすべての感情が原因だ。整理できないなにもかもを含んだ激情が、胸の中で渦巻いて、涙を流さずにいられない。
 いっそ、狂えてしまえば、楽なのかもしれない。
 けれど、自分はすでに、投げ出すことのできないものを背負い過ぎていた。
 それらを放棄すること、それは自分に願いを託した者たちへの裏切りであるだけでなく、自身の希望を守るために押し退けた他者への冒涜でもある。
(私は……)
 涙は流れ続ける。
 激情のままに。
 こつん、という小さな音に、クリスはぎくりと体をこわばらせた。その音は、まぎれもない、人のたてる足音。
 誰か、来た……!
 クリスは慌てた。自分が今、どんな表情をしているか自覚はあったから。城の者にこの姿を見られるわけにはいかない。今は手を結んでいるかつて敵であった者であれば侮りを、そして、自分の信頼する騎士たちであれば失望と不安を与えてしまう。
 闇の中に同化しているこの状況、気配を消していれば、あるいは発見されないかもしれない、そう願ったが、女神は聞き入れなかったらしい。 「クリス様?」
 聞き慣れた、低い声がクリスに向けられた。目を向けると、ランプを片手に、漆黒の髪と瞳をもつ疾風の騎士、パーシヴァルが立っている。
「……パーシヴァルか」
 答えた声は、いままで押し殺していたせいか、がらがらと嫌な音が混ざっていた。振り向きながら、クリスは心の中で息をつく。勘のいい彼のことだ、ランプの明かりをこちらへ近付けなくとも、クリスの様子くらい、簡単にわかるだろう。
 一番、気付かれたくない状況なのに。
 案の定、パーシヴァルは顔を曇らせて、近付いて来た。
「眠れないのですか?」
「そんなとこだ」
 答えながら、心の中で、パーシヴァルに懇願する。
 お願い、訊かないで……!
 自身も整理のついていない感情のために、ただ泣いていたなど、説明したくもない。けれど、自分を心配しているであろう彼等が、原因を知りたがるのは当然のこと。それは、わかっているけれど。けれど。
 パーシヴァルは、傍らにランプを置くと、羽織っていた上着を脱いでクリスの肩にかけた。
「どうぞ。冷えますから」
「……ん」
「早めに、寝て下さいね」
 そう言って、パーシヴァルはランプをまた持った。立ち去るつもりらしい。
「お前は、何も聞かないんだな」
「ええ。聞かれたく、ないんでしょう?」
 パーシヴァルは、薄く笑った。
「察しがいいな」
「つきあい長いですから。それに……人間、生きていれば、悲しいことなんかいくらでもあるものです。そのことを、人に言えずに泣いたって、それは、それでいいんですよ」 「それでいい、か」
「ええ。泣いて、泣ききって、そしてまた立ち上がることができるのなら。貴女は、そうできるでしょう?」
「……たぶん」
「だから、いいんです」
 言ってから、パーシヴァルは苦笑した。
「と、いっても、泣いているところを発見した以上、胸を貸したくなるのが人情だったりはするのですが」
「パーシヴァル……」
 クリスの眉が下がった。パーシヴァルはあいた手で、クリスの手をとる。
「手、冷えてますね」
「そうか?」
 握ってきたパーシヴァルの手は随分暖かい。それは、クリスが冷えている証拠でもある。
「よろしければ、何か暖かいものでもごちそうされてくれませんか? 元気が出ますよ?」
 いつもの調子で微笑まれて、クリスは笑った。
「そうだな。じゃあついでに、お茶のあとで、胸か背中を貸してくれるか?」
「私のでよければいくらでも。なんなら両方貸しますよ?」
「それもいいな」
 とられたままの手を、ごく自然に引かれて、そのままクリスはパーシヴァルと一緒に歩いていった。

ひさしぶりのパークリ
自分的には、祭りの作品をずっと書いてたから
ひさしぶりっていう気はしないんですけどね。
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