その日、いつもより一時間も早く起きてしまった事実に、ササライは、自分が予想外にこのイベントを気にしていたことを知った。
「ん……」
もぞもぞ、と布団の中から上半身だけ起こして、安物だが年期だけははいっている、ビュッデヒュッケ城作りつけの時計を何度か確認してみるが、やはり自分は早起きをしてしまったようだ。
低血圧で、いつも起こされてから布団を出るまでに三十分かかるはずの自分が、である。
「……」
他愛もないイベント、そうではなかったのだろうか。
確かに、去年までは。
「ササライ様、おはようございます! 朝ですよ〜……って! うわっどうしたんですか? もう起きていらっしゃるなんて!!」
「うるさいよ、ディオス」
いつもなかなか起きない上司に手を焼いている従者は、扉を開けた時点でササライが起きていたことに、かなり驚いたようだ。
「申し訳ありません、しかしどうされました? 本国から、何か急な知らせでも参りましたか?」
てきぱきとササライの身支度を調える手伝いをしながら、ディオスが訊ねる。今は戦争中で、ここは他国の客間だ。彼の心配は当然だろう。
「別に」
顔を洗い、ササライは煩わしそうに首を振った。
事実、その問いが煩わしかったのだが。
ディオスは不思議そうにしばらく無言でササライの手伝いをしていたが、何かに思い至ったらしく、ふと笑みを漏らした。
「ああ、そういえばバレンタインデーですものね。ちょっと楽しみですよね」
「……別に、そんなんじゃない」
じろりと睨まれてディオスは肩をすくめた。でも悪いとは思ってなさそうだ。
今日はバレンタインデー。
お世話になった人に、プレゼントを渡す日……が転じて女の子が好きな相手にチョコレートをプレゼントして想いを伝える日である。
ハルモニアの幹部として、一般人よりかなり殺伐としたササライにとっては、他愛のないイベントだった。政治的に関係のある良家の女子からいくばくかのチョコレートをもらい、社交辞令で返す。むしろ気疲ればかりする一日といっていい。
だが、今年はいつもとは違った。
チョコレートをもらいたい人が、いるのだ。
リリィ=ペンドラゴン。
この城にやってきて、偶然出会ったティント大統領の一人娘だ。
強気な性格と、大輪の華のような美貌に惹かれ、強引に口説き落としたのが二月前。一応周りには恋人だと(天の邪鬼な彼女は認めたがらないだろうが)認識されるようなつきあいをしている。
彼女が、自分に惹かれてはいない、とは思っていない。が、やはり形として伝えられるのとはまた別の話だ。
かの女性は、とても意地っ張りで愛の言葉一つ、滅多に囁いてはくれないのだ。
「朝食はお部屋でとられますか?」
「そうして」
あまり歩き回りたくはない。
こんな朝から彼女が訊ねてくるわけはないのに、ササライはそう思ってディオスに命令した。
くすり、と笑ってディオスが朝食を取りに行く。
結局それから午前中は仕事がちっとも進まず、書類はたったの五枚しか処理されなかった。
「ササライさん、危ないっ!」
昼食もすぎた穏やかな午後。
声をかけられて、顔をあげると、中央ホールの大階段から甲冑が落ちてくるところだった。いや、正しくは甲冑を着た人間というべきか。
受け止めるだけの腕力はない。
魔法使いの身軽さでさっとよけると、がっしゃあああん、というすさまじい音をたてて甲冑つき人間は床に激突した。
「……何これ」
かがんで見てみると、甲冑つき人間は一応生きているようだった。甲冑の下まではわからないが、くりくりの金髪の頭に出血は見られない。さすがに意識はないようだが。
人間って意外に頑丈だな、などと思っていると、上からさわやかな声が降ってきた。
「ササライ様、お怪我はありませんか?」
見上げた階段の上から、今足下に転がっているのと同じ甲冑を着た青年が降りてくる。風になびかすような特徴的な黒髪の青年だ。確か、ゼクセン騎士団長の側近の一人だったと思われる。
「ああ、僕にはないよ。この人は知らないけど」
ササライはいいながらちらりと足下の騎士を見やった。
そういえば、黒髪の騎士には、金髪の相棒がいると聞いている。うつぶせに倒れているので顔はわからないが、多分彼がそうなのだろう。
黒髪の騎士は、金髪の騎士の隣にしゃがみこむと、慣れた手つきで怪我を確認しはじめた。ほっとした表情をしているところを見ると、たいしたことはないらしい。
「大丈夫? その人」
「まあ若いし頑丈なので大丈夫でしょう。どうも受け身をとってなかったようなので、打ち身はひどいですが」
「受け身? その甲冑、そんなに動きづらいんだ?」
「いえ……そんなに動きづらいものはさすがに着ていないのです……が……」
言っていた黒髪の騎士は、途中で眉間に皺を寄せると、深々とため息をついた。
「この馬鹿……」
「ん? どうしたの?」
「いえ! 何でもありません!」
言い切ると、黒髪の騎士は、相棒の体を引き上げ、肩を貸す要領で相手の体重を担ぐ。
「どうでもいいって雰囲気じゃなかったけど」
「かなりどうでもいい理由なので追及しないでください。お願いします」
そう言われれば余計気になるのが人情というものだ。不思議に思って見てみると、金髪の騎士は、意識がないというのに、右手にしっかりと何かの包みを持っていた。甲冑などという戦闘用の格好にはそぐわない、赤とピンクのラッピング。
「チョコレート……?」
「……」
ササライは首を傾げた。黒髪の騎士が呆れ気味にため息をつく。
「もしかして、これから手を離したくなかったから受け身、とらなかったの?」
「みたい、ですね。呆れたことに」
黒髪の騎士は心底呆れているようだ。
「いいんじゃない? ほほえましくて」
「彼の救えないところは、これが彼の敬愛する女神からの贈り物ですが、紛うことなき義理チョコだということですね」
「義理なの?」
本人はこんなに大事にしているというのに。
「ええ。六騎士とルイスに六個、綺麗に全く同じチョコばかり」
チョコレートを渡すということを考えるようになっただけ進歩したのはありがたいが、うちの団長はまだ恋愛をする気はないようです。
黒髪の騎士は苦笑すると、相棒を担ぎ上げた。
「ちょっとササライ様がうらやましいです」
「僕が?」
「ええ、想う方にチョコレートをもらえる方は」
ササライも笑った。そういえば、チョコレートは皆同じ、ということはこの黒髪の騎士も特別扱いをされなかったのだろう。
「では」
相棒に肩を貸すようにして引きずりながら、黒髪の騎士は去っていった。ササライは笑って彼を見送る。
ほほえましさと、ちょっとした優越感。
そうだ。今年は特別なのだ。あの人とのバレンタインだから。
しかしそれでうまくいくなら人生に苦労はない。
「ナッ〜シュ〜〜〜〜」
お茶の時間もすぎた夕方前、ササライは地の底から響いてくるかのような低い声で子飼いのスパイの名を呼んだ。
「ひっ……幽霊……?! って、ササライ様?」
「誰が幽霊だよ。失礼だなあ君は」
「い……いやその」
そんなふうにびびられるのは、そもそもササライが常日頃ナッシュを苛め倒してきたのが原因だったりするのだが。
「それよりどうされたのです? 今頃はリリィお嬢様と一緒に……すいません、そのお嬢様のことなんですね?」
「察しのいい部下は好きだよ」
「ええそうでしょうとも」
それだけ殺気をまきちらしておいて、察しがいいも何もあったものではない。
「彼女、今日は何か重要なことでも入ったのかい?」
「さて、事情通の俺でもそんな話は聞いてないですけどね」
「そう……か」
ササライは俯いた。朝から期待して待つこと十時間近く。一向に彼女がササライの元を訪れることはなかった。
いつもの行動パターンとしても、これはちょっとおかしい。
(いつもだったら、ランチかお茶の時間に誘いに来るから、その時にでも渡してくれると思ってたのに)
しかし、いくら待ってもリリィは来ない。
食事に誘うくらいならいつものことだろう、と、自分に言い訳をして探してみたが、彼女はこの城にすらいないようだった。
「ま、女心と秋の空って言いますからねえ。もうちょっと気楽にお待ちになってはいかがです?」
「君はもらうあてがあるからそう言えるんだろうけどね……」
いつも通りの飄々とした態度のナッシュを軽く睨むと、彼は突然涙目になりササライの手をひし、と掴んだ。
「いつも気まぐれに振り回されてるから言えるんですよぉ」
「……君の奥方、くれないのかい?」
「あの女王様がそんな素直なわけないじゃないですか。下手に主張しすぎると絶対にくれないし、かといって、何も言わなければ忘れてるし」
最後はほとんど絶叫である。どうやら、ものをねだるには、彼の女王様は手強そうだ。
「だからこういうイベントは本音を言うと逃げ出したいところなのですけどねえ」
「まあ周りが騒いでいるからね」
どうしても意識をせざるをえなくなる、というわけか。
「ササライ様、そうだ、会ったのも何かの縁ですし、どこかに一日外出するような用事とかって……」
「ビュッデヒュッケ城内の情報収集ね」
にっこりと笑うササライに、ナッシュは肩を落とした。
「リリィさんの動向を中心に頼むよ♪」
「やっぱりそうですか……」
「今、僕の虫の居所がいいと思ったかい?」
「いいえ全然!」
悲痛な叫びをあげるナッシュの声を背に、ササライは不機嫌を加速させながら部屋へ戻った。
こち、こち、という規則的な音に耳を傾けながら、ササライは部屋の中で蹲っていた。
暗い部屋にただ一人、明かりもつけずに月光に照らされた時計を睨んでいる。
時計の短針は十二の文字のすぐ近く、長針は十一の文字の上にある。
つまり、夜中の十一時五十五分。
あと五分でバレンタインデー終了だ。
あれから、結局リリィは姿を現さなかった。
ナッシュの情報を持ってしても、彼女の行方はわからないらしい。従者の証言から、彼女が意図的に城を出らしいということまでは解ったが、そこまでだ。
こちん。
小さく音がして、長針が十一時五十六分を指した。
彼女は現れない。
バレンタインデーなんて、ただの他愛のないイベント。
そのはずだったのに今自分は何をやっているのだろう。
ただチョコレートを受け渡すだけのことにこんなに落ち込んでいる。
「いや、ただのチョコレートじゃないんだっけ……」
今日のこの日だけ、チョコレートはタダのお菓子ではなくなるのだから。
また時計の音を聞こうとしたそのときだった。
コンコンッ!
「っ?」
ノックの音が、静寂を乱した。
部下のものより、幾分柔らかな音。そう、いつもリリィがノックをするのと同じ調子で。
「はい、どなた?」
一日期待しすぎて、返って疑い深くなってしまったササライは、解っているはずなのに、そう問いかけてしまう。
しかし、ドアを開けた先には期待通りの人物が立っていた。
「リリィさん」
意志の強さを表す深い菫の瞳、豊かな栗色の髪、間違いない、彼女だ。
「どうして」
疑問が口をついて出た。今日はもう現れないと思っていたのに。
言うと、リリィはきゅっとローズピンクに彩られた唇をとがらせた。
「バレンタインだからに決まってるじゃない」
「え……」
「はいこれ。チョコレート!」
そう言って、押しつけられたのは唇と同じローズピンクの包み。重さからして、多分チョコレートが入っているのだろう。
「チョコレート……」
「何よ、いらないの?」
菫の紫で睨まれて、ササライは慌てて包みを胸に押し抱いた。
「そんなわけないじゃないですか! 嬉しいに決まっているでしょう!! 嬉しいに……は、はは……」
言いながら、ササライは笑い出していた。
本当に、すごく嬉しくて、チョコレート一つでこんなに嬉しい自分が滑稽で。
ただこれだけのことに、今日一日緊張して、落ち込んで、拗ねて怒って。それが、もらった瞬間にあっさり氷解してるなんて。
「ありがとうございます、もう……これだけ僕を振り回すことができるのは貴女くらいですよ」
「当たり前でしょ」
部屋にリリィを招き入れ、ソファに座ると嬉々として包装紙を破いているササライを見ながら、リリィはこっそりと心の中でつぶやいた。
ねえ貴方は怒るかしら?
貴方はいつも余裕たっぷりで、大抵のことには驚かないから、困らせようとしたんだってこと。
朝には用意してあったのに、慌てる顔見たさにわざと待たせて焦らしたんだってこと。
ねえ。
それを知ったら貴方は怒るかしら?
「ねえササライ」
「ひゃんですか? リリィさん」
「そのチョコレート、おいしい?」
「ええ、甘くておいしいです!」
「そう」
でも、リリィは秘密を明かさない。
ずーっと前からねたはあったのに、書き上げるのに時間が
(っていうか時間がなかなかとれなかった一作)
リリィさんが、こっそりものすごい悪女です。
まあでも相手がナチュラル腹黒ササライさんなので
ちょうどいいのではないかと思ったり
ササライ様ホワイトデーバージョンも書きたいなあ、と思います
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