吸血鬼と下僕 花魁企画
置き屋、高郷にて

 銀の髪の上を、音もなく櫛の歯が滑っていた。
 一櫛一櫛、くしけずられるたびに整えられ、銀糸は形を持ってゆく。
 ここは遊郭。
 遊女長屋の最奥にある、最大級の置屋、そのなかでも贅をこらされた遊女の私室。
 そこで女が、男に髪を整えさせていた。
 緋色の肌襦袢一枚で座る女の後ろに立ち、男は丁寧に櫛を入れてゆく。
 女の名はシエラ。この遊郭で知らぬ者はいない、極上の部類に入る太夫だ。
 しかし、紅玉の瞳に銀糸の髪をもつこの大輪の華が、いつこの街で花開いたか、それを知るものはいない。
 いつの頃からかその華は太夫としてもてはやされ、そして気がつけば、それから二桁の年月を重ねている。華の命は短い。太夫として五年も過ごせばとうが立つのが普通だ。だが、シエラは数十年たつというのに、いまだ少女の瑞々しさでもって咲き誇っていた。
 妖しの華。
 人ではないという噂は、半ば以上真実であろう。
 だが、街の人々は、女の美しさゆえ、女を愛するがゆえ、それをあえて受け入れていた。
「少し、うつむいてくれるか」
 男の言葉に、シエラは首を前に傾けた。
 きゅ、と髪の一部が結わえられる。
 遊郭で、ただ女を抱くのはたやすい。だが、格上の女、特に太夫を抱くことは、非常に困難を極めた。最初の顔見せが初会。そして裏、三会目と通うこと三度。それで遊女が気に入れば、やっと褥を共にできる。しかもそれまでの間、置屋や芸者、太鼓もちなどへ金をばらまくことを忘れてはいけない。金と粋、どちらが欠けても彼女達を手に入れることはできないのだ。

 シエラの素肌に触れる栄誉を与えられた男の一人が、先ほどから彼女の髪を結っている人物だ。
 大名などではない。男衆、つまり体のいい雑役夫。
 シエラの興が乗ったとき、気まぐれに体をまかせる。
 無論、金で売り買いされるべき体を、ただで男に預けるわけだから、許されることではない。だが、男の人に好かれる性格のせいか、女の地位のせいか、それは黙認されている。

 男の名は、ナッシュといった。
 もとはどこか大身の家の出だったそうだが、今は見る影もない。三十をすぎてもへらへらと、この稼業についている男には、実は裏の顔があった。
 歓楽街には、情報が溜まる。
 遊女の寝物語に、酒の肴に。風に吹かれた木の葉が隅に溜まるようにして集まった話を拾い上げてつなげ、形ある情報にしたものを主人に届けるのが彼の本来の仕事だ。
「さて、こんなもんか」
 余った紐と櫛を化粧箱に収め、ナッシュが言った。付き合いが長く、男の腕を信頼しているシエラは、鏡を見ることもしない。
「では、着物も着付けてもらおうか」
「はいはい」
 下手な髪結いや着付け師よりもよほど腕のいいナッシュは、てきぱきと化粧箱を片付けると、着物を取るべく別室へと移動した。そして、襖からひょい、と顔だけのぞかせる。
「なあシエラ、今日はちょっと趣向をかえていきたいんだけど、少し目を閉じていてくれないか?」
 どんな着物が着せられるかは、出来上がってからのおたのしみ、というわけだ。
「よかろう」
 シエラは安心して目を閉じる。
 いい歳をしていたずらっ子のようなことをする、この男の気性は、嫌いではない。
「んじゃ、着せるから立ってくれ」
 立ち上がったシエラの襦袢を軽く整えると、ナッシュは着物を着せていった。上着を一枚。内掛けや飾り襟をつけず、そのまま帯を着付けていく。
 不思議に思っているうちに、いつもの五分の一の時間で作業は終了した。
「ん?」
「さ、シエラ、目をあけて」
 目をあけると、ナッシュの深緑の瞳がシエラを楽しそうに見下ろしていた。その手には鏡がある。
「なんじゃ、この薄着は……ん?」
 そこには、見たこともない娘が立っていた。
 いや、顔の造作には見覚えがある。シエラだ。
 だが、この格好は何なのだろう?
 小ぢんまりとした髷、薄い化粧、そして地味な着物。これではまるきりそこらの街娘ではないか。
「ナッシュ! おんしはわらわを馬鹿にしておるのか? 街娘に仕立てるなど、ふざけるにもほどがあるぞ!」
 怒鳴ったのは当然。
 しかし、ナッシュはそれをやり過ごすと、突然真剣な顔になった。
「シエラ」
「……? なんじゃ」
 いつもの飄々とした顔ではない。今までに見たことがないほど真摯なそれに見つめられ、シエラは言葉を失う。
「シエラ、愛してる」
「……な」
 それは、禁句だった。
 遊女と男衆、その垣根を越えないための防波堤。
 想いを伝え合ってしまったら、本当の恋人になってしまったら、押さえきれなくなることが分かっていたから、お互い言わずにしまっておいた。そのはずだ。
 なのに、この男は言ってしまった。
 どうすればいい?
 遊女であるならば、失うしかない。けれど失いたくない。
 迷って、困って、何もいえなくなったシエラを、男はひょい、と抱き上げた。慌てて見下ろすと、相手の瞳はもとのいたずらな光を取り戻していた。
「というわけで、れっつ足抜け!」
「なんじゃそりゃあぁっ」
 シエラの返答などナッシュは聞いていない。シエラを担いだまま、部屋を出る。
「ナッシュ! おろせ! どういうつもりなのじゃ」
「だーかーらー、足抜けだって言ってんじゃん」
「足抜けって……ことの重大さがわかっておるのか!」
 足抜け、つまり勤めを放り出して逃げるということは、この街で一番の犯罪である。下手をすれば殺人より重く扱われ、その大罪に手を染めた男は当然死罪。女も殺されはしないが、それよりも重い罰が待ち受けている。

 それを、この男は。
「分かってるよ? 俺だって常識くらいはあるもん」
「だったら……!」
 シエラはそこで言葉を切った。前方から置屋の女将が歩いてくる。この光景を見られたらまずい。
 しかし、ナッシュはそんなことには気をとめず、ずんずんと廊下を歩いてゆく。
「あ……女将、これは……」
 いつものおふざけ、とナッシュをかばおうとしたシエラは、思い切り肩透かしをくった。
「おや、今日はいつになく元気な風が吹くねえ」
 そうそらっとぼけて、女将は視線を逸らせたのだ。
「へ?」
 ナッシュはにやにやと笑っている。
「おかみさん、世話になったね」
「……あらまあ、あたしも歳かねえ。ナッシュに似た声の空耳も聞こえるよ」
 あらぬ方向を見ている女将のわきを、あっさり通り抜けると、ナッシュはそのまま階段を降りた。シエラは呆然とするばかりである。
「どうなっておるのじゃ?」
「さあ?」
 ナッシュは答えない。
 そのまま、下っ端の遊女が支度をしている雑居部屋の前にやってくると、今度は黄色い歓声があがった。
「きゃああ、本当に風が吹いてきたわ!
「熱い風ねえ!」
 女達はシエラたちをみてひとしきり騒ぐと、こらえきれない、と笑いだす。
「みんな、元気でな」
 ナッシュが声をかけると、皆、先ほどの女将と同様に、『空耳が聞こえる』と言って笑った。それを満足そうに見ると、ナッシュは履物をはいて、置屋を出た。正面の入り口から。その間、番頭や太鼓もち、他の男衆もナッシュやシエラのことを見て目をそらし、『風が吹いた』と言い、ナッシュの言葉を『空耳』と言った。
「ナッシュ、どういうことじゃ」
「ん?」
 置屋を出ても、尚も担がれたまま、シエラはナッシュにきいた。
「何故皆わらわ達を無視するのじゃ」
「ちょっとね」
「ちょっとね、ではわからぬ!」
 街の通りに出ても、状況は変わらなかった。人々は、二人に一旦目を留めるものの、『風だ』『空耳だ』と言ってそらとぼける。
「あんた、街の連中に感謝するんだぜ? 俺ひとりの人望じゃ、こんなに大掛かりなしかけ、できなかったんだから」
 くすくすとナッシュは笑う。
「しかけ、ねえ」
「俺達が置屋を出て、この街を出る門をくぐるまでの間、俺達は風なんだ。だから、誰の目にも見えないし、言葉だって聞こえない。そういう、お約束」
「約束って、街ぐるみで?」
 そう、と言ってナッシュはうなずいた。
「俺達は誰にも気づかれず、街を出る。そして遠くに逃げたころあいに、あんたを呼びにいった女将が俺達がいないことに気が付くっていう筋書きさ。面白いだろ?」
「……面白いというかなんというか……よく街全体で皆のってきたのう」
「それだけあんたが愛されてるのさ」
 あっけらかんとした口調で、男は恥ずかしい台詞を言う。
「しかし、何故急にそんな計画を実行しようと思ったのじゃ?」
 今更、という気がしなくもない。呆れたことに、男との付き合いは十年以上になる。血気にはやる若い頃ならまだしも、なにもかもあきらめてしまったような、この歳になってから行動を起こした、その理由がわからない。
「んー、俺の上司の腹が黒いのは知ってるだろう?」
 上司、とは置屋の女将ではない。隠密稼業のほうの雇い主だろう。
「ササライ……じゃったか? 若年寄の」
 幕府のなかでも五本の指に入る実力者だ。政治に興味のないシエラが、何故この名前を知っていたかというと、つい最近まで身請けしたいと言い寄られていたからだ。
「あれがひどいこと言い出してさ」
「はあ」
 それがどう繋がるのか、さっぱりわからない。シエラは不思議そうにナッシュを見下ろす。
「植え替え叶わぬ花ならば、いっそ手折ってしまえってさ」
「つまり、おんしにわらわを殺せ、と?」
 なるほど、身請けに応じず、顔に泥を塗った遊女など、生かしておく気もおこらないらしい。
「ひどいと思わねえ? 十年以上も勤めてきた部下に対して、惚れた女殺して来いって。あいつがあんたに言い寄ってたときは、あんたが絶対首を縦に振らないって分かってたからほうっておいたけどさ」
 我慢も限界だっての。顔の割にがらの悪い地を出して、ナッシュは毒づく。
「で、俺がのらくらかわしてその命令を拒絶したとしても、また別の刺客が雇われるだけだからな。だったらいっそ連れて逃げてしまおうかと思ってね。街の連中も、そのことを話したらみんな協力してくれたよ。『うちの名物を手折られるくらいなら、盗まれたほうがまし』ってさ」
 そう煽ったのは彼自身であろうに。シエラはため息をついた。
「おんし、よいのかそれで」
「言ったろ、愛してるって。最愛の女と一緒に逃避行。これ以上幸せな道はないと思うけどね」
 そう言ったナッシュの目に迷いはない。
「ほら、もう出口だ」
 見上げると、遊郭と外界を隔てる門がそこにあった。ナッシュはシエラの履物を地面に置くと、やっと彼女を地上に降ろす。
「さあ行こう、シエラ」
 ナッシュは、門をくぐるとシエラに手を差し出した。
 最後の一歩は彼女から。
 そうして逃げ道をつくっておくところがこの男らしい。
 シエラは周りを見回した。門番以下、この街に詰めている役人までもがわざとらしく寝たふりをしている。
 くす、と笑って。
 シエラは、優雅に男の手を取った。そして、門をくぐる。
「さて、贅沢三昧の生活をしておったわらわを、おんしのような甲斐性なしが養っていけるのかのう?」
「まあなんとかなるさ」
 そう言って、ナッシュは青空のようにからりと笑った。



吸血鬼と下僕同盟、花魁企画に参加させていただくにあたり、
ふとおやじナッシュを書いてみたら
頭に創作の神様が降りて来て「書け」と命令して下さいました
(そう言いたくなるくらい唐突に話が浮かんだのです)
うちのおやじナッシュは攻め攻めなので態度でかいです。


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