それは星。
それはともしび。
暗い夜道を照らす、ささやかな、あかり。
「そうか。今の状況はそのようになっておるのか……」
紅茶を傾けながら、相手の言葉を聞いていたシエラは満足そうに微笑んだ。
「ええ。私が今話した内容で間違いないと思うわ。シエラさん、おかわりはいかが?」
ティーサーバーを持ち上げながら、アップルがきく。シエラは答えるかわりにティーカップをアップルの前に差し出した。
グラスランドとゼクセン連邦のちょうど中間に立つ古ぼけた城、ビュッデヒュッケ城。十五年前のデュナン、十八年前のトランとそっくり同じに人材のるつぼと化したその場所へ、シエラはやって来ていた。
歴史の運び手となった彼等に手を貸すためではない。実際、彼女の名前は運命の宿星として石版に刻まれてはいない。
ただ、情勢を見極めるため。
そして、過去に少なからず言葉を交わした友の決断の先を知るために。
「少しはお役にたてました?」
「ああ。昔なじみがいると、話が通りやすくてよいわ。ふむ……しかし、アップルの申すこと道理ならば、この戦の行く末は決まったようなものじゃのう」
「そうかしら?」
「うむ」
シエラはうなずく。
「へえ、俺達が知恵をしぼりまくって、それでなんとかやってるっていうのに、あんたにはもう先がみえてんのかい?」
飄々とした声が割って入った。見ると、戸口にいつも眠そうな顔をした少年軍師、シーザーが立っている。
「シーザー! 聞いていたの?」
アップルの口調がとがめるものとなる。それをシーザーは軽く受け流した。
「今戻って来たばっかだよ。おひさしぶり、シエラさん」
「おんしはあいかわらず生意気じゃのう。わらわはおんしよりもずっと長生きで、紋章のことにも詳しい。じゃから、見えるものも少々ちがっておるのじゃ」
「だったら、その知識を貸してくれよ」
期待などしていない、のんびりとした口調でシーザーが言う。シエラはすげなくそれを断った。
「やめておくのじゃな。おんしとて、この戦に五行以外の真の紋章が関わることを望んではおるまい?」
「ま、そうだけどね」
紅茶を飲み干すと、シエラは立ち上がった。シーザーはほうっておいて、アップルに笑いかける。
「アップル、礼を言うぞ。ここへくるのは少し憂鬱だったのじゃが、昔なじみの顔が見れて楽しかったぞえ」
「ふふ、シエラさんならいつでも大歓迎よ。フッチ君とかもいるから、気が向いたら、彼等にも会ってあげてちょうだい。きっと喜ぶわ」
「ん? なんじゃ、おんしの他にもデュナンにいた者が来ているのか?」
「そうよ。確かフッチ君と、トウタ君とジーンさんと……シーザー、あと誰がいたかしら?」
「物忘れは老化のはじまりだよ、アップルさん。リリィさんもいれていいんじゃない? 小さかったらしいけど、ネクロードの一件に関わっていたんだから、立派にシエラさんの知り合いだろ」
「おお、あの幼子か。さぞ愛らしい娘に成長しておることじゃろうのう……」
シエラが目を細めるのを見て、シーザーが苦笑した。
「見てくれだけなら美人に育ったけどねえ……」
「シーザー!」
「あ、はいはい、よけいなことは言いませんよ、アップルさん」
「もう! こんな台詞ばっかりうまくなって! そうねえ……あとは誰がいたかしら。あ、そうそう、ナッシュさん!」
「ナッシュ?」
シエラがぴく、と肩を震わせた。
「ええ、宿星ではありませんでしたけど、あの戦争のときに、いろいろと関わっていらっしゃったそうで……あのとき、私は直接は存じませんでしたけど。確かシエラさんも、お知り合いでしたよね?」
「……ほんのわずかな間、荷物持ちに使っておっただけじゃ。なんじゃ、あ奴もおるのか」
「なんでも、ゼクセン騎士団の団長、クリスさんをナンパしたとかしないとか……」
アップルのその話に、シエラは渋面になる。
「あ奴はナンパをせぬと、人に近付けぬのか?」
「あ、シエラさんもナンパされたんだ?」
「わらわのことはどうでもよい! シーザー、おんしは本当に生意気じゃのう」
シエラはショールを翻すと戸口に向かった。
「べっつにー? ああそういえば、ナッシュさんってさ」
「なんじゃ」
「奥さんいるんだってさ。二言目にはカミさんとかいうくせに、ナンパ野郎なんて、変な人だよね」
「ふうん?」
シエラは、気のない返事をすると、そのまま部屋を出た。
興味がなかったわけではない。むしろその逆で、うまく返答できそうになかったので、その場を去ったのだ。
思い掛けない人物の名前と、思い掛けないその状況に、自分でも驚く程、動揺してしまったようだ。
ナッシュ=ラトキエ。
十五年前、知り合った男。
今でも簡単に思い出すことのできる、金髪碧眼のお人好しな青年だ。
共に行動したのはたった数日。
体さえも重ねたけれど、それもたった一夜。
それだけのつながりであるくせに、シエラにとっては忘れられぬ人物だった。その短い時間の中で、彼はかけがえのないものをシエラに与えてくれたから。
この世で最初の同胞を葬り去るシエラの涙を拭うためにその手を。
そして、まじりけのない、純粋な恋慕を。
『もし俺が、人として十分生きて……生き飽きて、それからあんたと一緒に生きてもいいって言ったら…』
紋章のことも、呪いのことも全て知りながら、そうしておいて尚むけられた言葉。
その声音に、本気のにおいを嗅ぎとったシエラは、心の底から嬉しいとおもいながらも、それを即座に否定した。
そんな優しい男を、自分の血みどろの運命に巻き込みたくはなかったから。
彼には、やはり陽光の元の当たり前の幸せが必要だと、思ったから。
自分には決して与えられぬ、ナッシュの幸せのために、シエラは相手を否定した。
けれど。
彼の言葉が嬉しかったことも本当。
あの日ナッシュに与えられた言葉は、月の紋章を取り戻す戦いの中でも、デュナンでの悲しい争いの中でも、そしてこの十五年の放浪の旅の中でも、シエラの行く手を照らす灯火となった。
彼の言葉を思い出すだけで、ほんのりと胸が暖かくなる。
長き時を歩く力が出た。
けど。
ちりり。
胸の奥の灯火が、何かを焦がしている。そんな感覚を覚えてシエラは顔をしかめた。
シーザーから、ナッシュに妻が出来たと聞いてから、灯火はその姿を変えていた。自分でも把握し切れない変化に、シエラは戸惑う。
嫉妬か?
ナッシュを手に入れることができた人の女に。
いや違う。
シエラは浮かんだ考えを即座に否定した。
ナッシュのために、身を引くこと、このことは純粋に正しかったと思う。この十五年、彼のことを思い出すついでに、今頃幸せに家庭でも築いているのかと、問うことすらした。
では何が?
『一緒に生きていいって言ったら……』
ナッシュの言葉が頭でリフレインする。
ああ、そうか……。
シエラは唇を噛んだ。
自分は、ひとりじめがしたかったらしい。ナッシュではなく、彼の言葉を。
共に生きるという言葉を、自分だけのものにしたくて。だから、妻を娶ったことが気に入らないのだ。
「強欲な……」
自分で否定したくせに。
拒絶した自分に、相手をとめる権利などないことくらい、わかっていたのに。それでも、それだけは自分のものにしたくて。
苦笑を漏らす。
わらわも長く生きすぎてヤキがまわったかのう……。
「ナッシュ! 今日という今日は許さん!!」
考えながら歩いていたら、随分移動していたらしい。男の怒鳴り声で、シエラは我に返った。
ナッシュ?
怒鳴り声の方をむくと、白銀の甲冑を着た三人の騎士と、緑の服を着た男が言い争っているのが見えた。
「ボルス、なにも剣まで向けなくてもいいだろうが!」
「そうそう。単に挨拶しただけじゃん」
「ナッシュ黙れ! ついでにキスするのは挨拶とは言わん!!」
「えー? そだっけ?」
へらへらと笑いながら、緑の服を着た男は、騎士の一人の剣をかわす。
一目で、その男が誰か分かった。
十五年前の、べらべらしたマントはやめたらしい。でもあいかわらず首にはマフラー。輝くような金髪は、少しくすんだだろうか。しかし、いたずらっぽいすんだ緑のまなざしは同じ。
少し人は悪くなったのだろうか。騎士をからかって、心底楽しそうに男は笑う。
「へいへい、去りますよ〜だ」
「もう来るな!」
からかうだけからかって、気がすんだのか、ナッシュは笑いながら市場のほうへやってきた。楽しかったのか、まだくすくす笑っている。
笑い顔の屈託のなさは、昔と同じだ。
その顔が少しだけ曇る。首に手を当てて、ため息をついた。
まだ、何か抱えているのだろうか。十五年前、出会ったころには何か思い悩むところがあったらしいが。
つぶさにその様子を観察していたシエラは、そこで、ようやく、自分のいる状況が非常にまずいことにきがついた。
これだけ自分が観察できるということは、向こうからも観察できる距離にいるということで……。
身を隠すことなどさっぱり考えずにナッシュを見ていたことに、シエラは思い至る。
ナッシュの首が、こちらを向く。
情景の中に捕らえられる前に、シエラはその場から逃げ出した。
その夜。
シエラはまだビュッデヒュッケ城にいた。
正直、もう城に用はない。星が集まり、人々の運気がまとまったところで、勝負がどちらに転ぶかはもう分かっている。
けれど。
蝙蝠に姿を変え、湖の上を移動していたシエラは旋回して、また城の裏手に舞い降りる。まるで、結界でも張られているかのように、城の敷地はシエラの行く手を阻んだ。
蝙蝠からもとの姿に戻ると、ため息がでた。
自分のやっていることが、把握できなかった。
というより、理解したくなかった。
灯火がともっていたはずの胸には、後悔の念が渦巻く。
来るのではなかった。
「……すべて、見定めることは終わったし……もういけばよいのじゃが……」
見るのではなかった。
(会いたい)
「ナッシュ……」
知るのではなかった。
(会いたい)
「シエラ!」
名前を呼ぶ声に、シエラは仰天した。思わず身を翻して逃げる。
そうしなければ、何かが壊れる気がしたから。しかし、それを見逃してくれる相手ではなかった。
「逃げるな!」
驚くべき速さで距離をつめると、ナッシュはシエラの体を抱きかかえ、茂みに突っ込む。
「きゃあっ!」
少女のようなかわいらしい悲鳴をあげたあと、シエラはじたばたとナッシュの腕の中でもがいた。
「はなせ、この無礼者! 婦女子に抱きつくとは不埒にもほどがあるぞ!」
他にすることがあるはずなのに、混乱して、そう叫ぶのが精一杯だった。
あたたかな腕の感触。
逃れなければ。でなければ、二度と離れられなくなる。
「そうでもしないとあんた逃げるだろうが!」
「あんな血相を変えて追い掛けられれば誰だって逃げるわ!」
「人を騙したあげくに約束やぶったような女見つけたらとりあえず血相変えるのが普通だろう!」
ひとしきり怒鳴りあって、シエラは荒く息をついた。何故この男は、十五年前とそっくり同じ口調なのだ!
「……いいかげん離せ。苦しい」
「……離したら逃げる」
「駄々っ子かおんしは。本当に苦しいのじゃ、いいかげんにせよ!」
腕が少し弛んだ。けれど、決して逃れられる強さではない。
「……スケベが……」
「なんとでも言ってくれ。俺はあんたを離したくないんだ」
やめてくれ。
「子供じみたことを言うでない」
「あんたに比べりゃ誰だって子供だよ」
首に顔をうめられ、シエラは叫び出したい衝動を必死に押さえた。
やめてくれ。甘えてしまいそうになるから。
それでもなんとか昔の調子を維持しようと、シエラは軽くナッシュの腹をつねる。
「全く、十五年もたったというのに、老けたのは顔だけかえ?」
「渋みが出たと言ってくれ」
「どこか渋みじゃ。単によれよれになっただけではないか」
「ひでえな。これでもそれなりに人気者なんだぜ?」
十五年前と変わらない軽口。あたたかなそれに溺れないよう、なんとか己を律し、シエラは高圧的にナッシュを見遣る。
「人気者のう……懐いておるのは動物ばかりではないのかえ? 犬とか」
「なんであんたがそれを知ってるんだよ!」
悲鳴のような声をだすナッシュの腹を、また強くつねる。そうだ、つっぱねてしまわないと。彼には帰る場所があるのだから。
「わらわに見通せぬことはないのじゃ。それよりいい加減にせぬか。おんし、妻をめとったのであろうが。奥方以外の者にこのようなことをするでない」
「奥さんがいなかったらしてもいいのか?」
「なぬ?」
いたずらっぽい緑の瞳で見つめられ、シエラは頭が真っ白になるのを感じた。
「見通せないことはないって言っておきながら、あんたも俺の嘘にひっかかったな? 奥さんいるってのは嘘。銀の乙女なんていう大層な人と仕事上お近づきになる必要が会ったんだけど、これがまた恐いくらい強い親衛隊様様がついていてね、そうでもしないと話が進められなくて」
シエラはあきれ顔になった。
「……嘘、かえ?」
では、まだ独りなのか、彼は。
そして、あの言葉は今だ、自分だけのものなのか。
「ああ。大体考えても見ろよ、俺にカミさんもらう甲斐性あると思うか?」
「ないのう」
「即答かよ……」
「嘘にリアリティをもたせるためにモデルにした人はいるけどなあ」
意味ありげに視線を送られ、シエラは思わず本気で嫌そうな顔になった。
「まさかわらわか?」
「そのまさか。やー、その傍若無人っぷりが恐妻家を演出するのに本当にぴったりで……」
ぎり、とまた腹をつねる。これも多分に本気を含んでいる。
「ま、でも甲斐性があったところでカミさんもらうのなんか無理だけどね」
「何故じゃ?」
「俺の気持ちを十五年も前に持ち逃げしやがった悪い女がいるんでね」
ぴく、とシエラの眉があがった。十五年前、持ち逃げ、と言われれば、それが誰を指すのかわからないわけはない。絶妙のタイミングで投げられた言葉に、不覚にもシエラは心が震えるのを感じていた。
「それはどんな奴じゃ?」
「我侭で、自分勝手で、約束は守らないわ、とんずらこくわ、とにかくひどいおん……痛え!」
思いきりつねられ、ナッシュが叫んだ。
「誰もあんただなんて言ってないだろうが!」
「しらじらしいことを言うでないわ! このたわけが。人を奥方よばわりするどころか、もてないのをわらわのせいにする気かえ?」
「だってあんたのせいだもん」
「ナッシュ!」
ナッシュがシエラの耳もとで囁いた。
「なあシエラ、あんた、覚えてるか? 十五年前、俺があんたと一緒に生き……」
「やめよ」
「嫌だ」
ナッシュが断言すると、シエラの紅い瞳が揺れた。
しまった、動揺にまかせて話を聞いているのではなかった。この言葉はまずい。
この言葉にだけは嘘がつけなくなるから。
そう思った通り、本心が口からこぼれた。十五年前、笑い飛ばせた台詞に、本当の言葉で応えてしまう。
「やめよ……この阿呆が。おんしが望もうとしているのは、安楽な生を捨てるということじゃぞ? そのあとには、うつろな生しか残らぬ」
だから、やめろ。
「安楽、ねえ」
半ば悲鳴をあげるような気持ちで出した言葉をナッシュは鼻で笑った。
「ナッシュ?」
「俺は今でもじゅーぶんろくでもない人生を歩んでるっての。それにさ、惚れた女がそばにいない男の人生がどれだけうつろだと思ってるんだよ」
「……っ、ナッシュ」
シエラの声が、震える。ナッシュはまたシエラの肩に顔をうずめた。
その仕種から伝わってきたのは、孤独だった。
その孤独のあまりに冷えた感触にシエラは胸が痛くなる。
自分がいなかった間、彼にあったのは、ただの孤独だったのか? 突き放したことは、幸福へとつながらなかったのか?
「俺は、つまらなかったよ。あんたがそばにいない十五年……ずっと」
「阿呆が……別の女を好きになればよいものを」
彼の望みは、陽光の元にはなかったのか?
「しょうがないじゃないか。あんた以外、俺に火をつけることができないんだから」
シエラは泣きたくなるのをこらえた。
闇の中であっても、そのうつろな生の先にあるのが、悲劇であっても、お前の望むものはここにしかないのか。
それしか、望めぬのか。
ならば。
「阿呆……」
ぎゅう、とシエラはナッシュの背を抱いた。
与えよう。望むまま。
抱き返そうとした男の背に、シエラは思いきり爪をたてる。笑って。
「……シエ……!」
反射的に弛んだナッシュの手から逃れると、シエラはぴょこんと立ち上がった。逃げられると思ったのだろう、手をのばした男の目の前にシエラは両手を差し出す。
変なポーズだった。
まるで子供が親にだっこをねだるようなポーズ。
「シエラ?」
「気の利かぬ男じゃ。はようせい。わらわはおんしの奥方なのじゃろう?」
「え?」
「遠路はるばる会いに来た奥方を、いつまでもこのようなところに立たせておく気かえ? さっさと部屋に運ばぬか」
間抜け面で見つめてくるナッシュに、シエラは腹のなかで毒づいた。
けれど。
「はいはい、お運び致しますよ、奥さん」
ナッシュは笑いながら、シエラの体に手をまわす。
けれど、それはお前が選ぶこと。
「はいは一回じゃ!」
抱き上げられながら、更に大絶叫。
わらわは絶対に責任などとらぬぞ!!
それを知ってか知らずか、ナッシュは幸せそうに微笑んだ。
予告していたシエラ様サイドのお話です。
シエラ様が可憐に乙女です。
いいんだ、夢を見過ぎでもなんでも、
うちのシエラ様は可憐!!
突っ走るもん!!
>帰る!