幸せな力

 男の寝台から滑るように抜け出すと、シエラはのびをした。白く細い肢体が窓から差し込む淡い光に照らされる。
 夜明け前。
 まだ空は白みこそすれ、曙の暖かな色彩を帯びてはいない。
 シエラは決まってこの時間に出かけることにしていた。
 男との逢瀬の時間を考えると、ほとんど睡眠時間などとれないのだが、彼女には男のようにやらなければならない仕事があるわけではない。眠くなればどこか木陰で昼寝をしていればいいのだ。
 それより問題は人目だ。
 男が今身を寄せている場所、ビュッデヒュッケ城。グラスランドとゼクセン連邦の同盟軍の本拠地であるここには多くの人種が集っている。そして、多くの人材も。その中には呆れたことに真の紋章を持つ者が四人も加わっていた。
 所持者に不老と絶大な力を与える真の紋章。今回の戦争の発端であると言っていい。彼ら四人の持つ紋章とは直接関係ないが、シエラもまた、真の紋章の一つ、月の紋章の正当な継承者である。直接関係はないのだが……真の紋章というものが、この城で特別な意味を持つ以上、知れれば面倒なことになる。面倒はごめんだ。
 服を着て、部屋の戸に手をかけると寝ているはずの男が声をかける。
「シエラ?」
「散歩じゃ。また来ようほどに」
「んー……」
 返事をすると、また男は眠ったようだ。特殊諜報員というのも、因果な商売である。どんなに熟睡しているように見えても、小さな物音で目を覚ます。おかげで寝かせておいてやろうという仏心が成功したためしはない。まあもっとも、男に言わせると「一度置き去りにされた過去がトラウマになっている」のだそうだが。
 さてこれからどうしようか。
 男の部屋から出て、戸を閉めたと同時に、人と目が合った。
(まず……)
 今部屋に入るところだったのだろう。すぐ隣の部屋の扉を開けたポーズのまま、その人物は固まっている。見た目の年齢は十代後半、小柄なその体に纏っているのは青い軍服。ハルモニアの神官将、ササライである。
 まずい、のう。
 この時間帯、ナッシュの部屋から出てくる女。どういう関係かは明白である。
 この城のなかでナッシュはそれなりに有名人らしく(呆れたスパイだ)特定の女がいることでもかなりのゴシップとなる。それだけではない。彼女の正体がササライにばれでもしたら、真の紋章を持つ者を隠していたナッシュは命令違反と国家反逆罪で逮捕されてしまう。自分はいい。この程度の若者から姿をくらますことは簡単だ。だが、ナッシュはそうはいかないだろう。
 こうなったら……。
 一瞬考えをめぐらした後、シエラは服の裾をつまみ、優雅に頭を下げた。
(開き直ろう)
「ごきげんよう」
 にっこり。
 華のほころぶような笑みに、ササライが一瞬毒気を抜かれる。そのすきをついてシエラはさっさとその場から姿を消した。
 あとは、ナッシュがなんとか言いつくろうだろう。
 嘘はあの男のほうがうまい。


 木陰で昼寝をしていたシエラを、何者かの気配が邪魔した。体を起こしてみると、呆れたことに、気配の主は随分近くに立っている。
 ただのぼんぼんかと思えば、随分と訓練をつんでいるようじゃのう。
 シエラが立ち上がると、ササライは声をかけてきた。
「シエラ様……始祖様でいらっしゃいますね」
「ふん……」
 そのまま無視して踵を返すシエラに、ササライの声が追いすがる。
「待ってください、シエラ様!」
 シエラは無言だ。
「私は貴方と話がしたいのです。それだけですから!」
「話、となあ?」
 シエラは首だけで振り向く。あからさまに不機嫌な顔に、ササライは困った顔になる。
「そうです。それだけです。別にナッシュの命令違反や、貴方との関係をどうこうする気はありません。話をしてくだされば」
 それは、暗に話さなければナッシュをどうこうするぞ、と言っているのだろうか。体ごと振り向きはしたが、ますます不機嫌につりあがる眉を見て、ササライはため息をつく。
「本当に……それだけですよ。まいったなあ、これじゃ権限を使って部下の奥方に手を出す悪徳上司みたいじゃないですか」
「そのままであろうが」
「……うーん……そうなりますかねえ」
 本気か冗談か、ササライは首をかしげている。シエラは息を吐き出した。
「で? 何が聞きたい? 言っておくが老いぬことの恨み言も、生き続けることの喜びもわらわは一切語るつもりはないぞえ?」
 ササライは少し黙った。それから、ゆっくりと問う。
「何故、私のききたいことがそれだと?」
「気休めが欲しい、そんな顔をしておる」
 言うと、ササライはぷっと吹き出した。
「そうですね。そうかもしれない……はは」
 前から一度会ってみたいとは思っていた。千年近く紋章を宿す、恐らく真の紋章を宿す最年長の人物。けれど、手段も外聞も省みず追いかけてしまうような行動をとったのはきっと、自分と同じ顔をしたあの男に会ったからだ。
 それを言い当てられたのがなぜか快くて、笑ってしまう。ひとしきり笑うとササライは顔を上げた。
「貴方は、お優しいですね」
「わらわが? 今思い切り質問を拒否したが」
「そういうところがお優しいというんです。まいったな、ナッシュのものじゃなかったらぜったい口説き落としてるのに」
「……ナンパはハルモニアのお家芸か?」
 ササライは、今気が付いた、と言う風に手を打った。
「ああ、これがナンパか」
「……今の、わざとじゃったら殴っておるぞ」
 ふう……とシエラはため息をつく。
「全く妙な童じゃ。聞きたいことというのはもうよいのかえ?」
「ええ。なんかどうでもよくなりましたので」
 しかし、とササライ一旦言葉を切る。
「少し、安心しました。貴方が「人」だったので」
「わらわが「人」とな? これは異なことを……わらわは千年近く生きる始祖じゃぞえ?」
「貴方は「人」ですよ。間違いなく。今の質問を拒否した優しさ、それにナッシュと共にいるのがいい証拠です」
 くすくすとササライは笑っている。シエラはまた眉の間に皺をつくる。
「あれは……気まぐれじゃ」
「そうですかね?」
 問う形をとってはいるが、口調はその実、答えを断定していた。シエラの眉間の皺が更に深くなる。黙っていると、またササライが口を開いた。
「そういえば、ナッシュからは魔の気配がしませんが、眷属にはなさらないので?」
 当然のように言われ、シエラはササライに向かって鉄拳を繰り出した。ごす、といういい音がしてササライはよろめいたが、被害を最小限に押さえるために身を引いたのが手ごたえでわかる。
「その方が詮索するようなことではない」
「……だって放っておいたらあいつ死にますよ?」
 寿命違うし。
 逢瀬のたびにシエラの頭を横切る不安を、ササライはこともなげに口にする。彼もまた真の紋章をもち人とは違う時間を生きる者でなければ、その場で消し炭にしているところだ。
「わらわは……あやつに空ろな生など与えたくはないのじゃ」
「で、あいつが死んだあと、シエラ様が空ろに生きていくわけですね」
 ぴしゃん、と雷がササライに向かって走った。しかし、一瞬早くササライの体を護りの天蓋の光が包み込む。土の魔法使いに魔法攻撃を繰り出すのは愚行であったか、とシエラは心の中で舌打ちをする。
「シエラ様、私はですね、少しあなたがうらやましいんですよ」
 いつでも魔法を繰り出せるように構えながらササライは笑う。
「うらやましい?」
「ええ。だって貴方は長き生を共に生きる者を選ぶことができるじゃないですか」
「選ぶ?」
 そうそう、とササライは言った。
「私はまだ三十年しか生きてませんけどね、やっぱり時々考えるんですよ。自分の時の長さを。気に入っていた部下が年齢のために昇進していったり辞めてしまったり、そしてつぎつぎ新しい部下がやってくる。ナッシュなんかは長いほうですけどね。
 レナっていったかなあ。彼女が体力の衰えを理由に親衛隊から抜けていったときはさすがに泣けましたね」
 あまり悲しくもなさそうにササライは続ける。
「長い時間を同じに生きる人たちというと、他の真の紋章もちですけど、みんな運気が強すぎて長い間一緒にはいられない。まあ生きる時間が長いからお互いに顔見知りにはなっていくんですけど、それでもねえ。だいたいハルモニアにいると大抵の紋章もちは皆敵ですから」
 べらべらと喋りつづけていたササライは、そこでやっと息をついた。
「……で?」
「ですからね、道連れを作れる貴方はとてもうらやましい、と思うんです」
「蒼き月の村の話をお主は聞いておらぬのかえ? あの惨劇を。あれの原因を作ったのはわらわじゃ」
「えー、あれってそもそもネクロードのせいでしょ。だいたい吸血鬼になった連中だって自己責任だし」
 即答で言い切られて、シエラは肩をおとした。
(ひ……ひとの三百年の苦悩を「えー」の一言ですますな!)
 そう言いたいが、力が抜けて言葉にならない。その顔を、ササライがのぞきこんだ。
「一回失敗をしたのなら、そこから学べばいいじゃないですか。二度と、離れないように」
「そもそも危険を回避しようという気は起こらんのか?」
「それじゃ人生つまらないでしょう」
「……今まで人生を悲観しておった者が何を言う」
「ついさっきふっきれました。私は人生を好きなように生きます」
 シエラはじろりとにらみつけるが、ササライは動じない。狸というより、この場合はぬらりひょんと言ったほうが正しかろう。
「それに大体!」
 大声で言って、ササライはシエラに顔を寄せた。迫力に押されてシエラは後ずさる。
「空ろな生空ろな生っていいますけどね、長い時間を生きたからって、ナッシュの頭の中が枯れるとは到底思えないんですよね」
「……はあ」
 空ろ、とはそれだけを指して言っているわけではないのだが。しかし、その反論もまたササライによって押しつぶされる。
「考えても見てくださいよ、あの男の不幸っぷりを! 多分どれだけ年月を重ねようとも常に人生の山か谷に差し掛かってると思いません?」
「……それも、そうじゃな」
 なんだか反論するのにも疲れたシエラにはそんな言葉しか出なかった。あながち間違いでもないし。ササライは無邪気に「でしょー?」とか言っている。三十をすぎた男の言動だろうか、これは。
「と、いうわけでシエラ様」
「どういうわけじゃ」
「ナッシュを近いうちに眷属にしといてください」
「はあ?」
 やー、有能な部下の消費期限を考えなくっていいっていいなあ。当初の発言からは全く論点のずれたところでササライは一人納得している。
「ちょっと、それは何かちがうじゃろう!」
「いいじゃないですか。貴方は恋人がいてハッピー、私は部下がいつまでも使えてハッピー、ナッシュも女がいてハッピー。ほらみんな幸せ」
「何がハッピーじゃ! 幸せなのはおんしの頭の中だけじゃ!」
 最高位の雷魔法を発動させるべく手を振り上げたシエラと、それをおもしろそうに見ながら反撃の準備をしているササライを見つけて、全速力で走ってきたナッシュが何とかその場に割って入ったのは、その五秒後のことだった。


 

なんかササライが壊れてます。
おかしい……ナチュラルに黒い男にしようとしたのですが、
結局こんなことになりました。
ササライファンの方、すいません
>かえりまーす