それは、狂気の沙汰だった。
平原に広がる、敵の波。
響く団長の鬨の声。
戦場を襲う殺意という熱気に煽られて飲み込まれて。
ただまっすぐに、突進した。
目の前に立ちはだかるものは「敵」
それだけのモノ。
ただ生き残るとか、それ以上に
いかに効率よく屠るか。
無感動に計算と行動を繰り返し、
ひたすら排除する。
支配するは狂気
感じるべき恐れも罪悪感も
その前では全て吹き飛んだ。
だから。
正気にもどったとき、「それ」は一気にキた。
「ぐっ……」
戦闘を終え、ふと目の前に広がるものたちがただのモノではなく、「人の骸である」と認識したとたん、こみ上げてきた吐き気にこらえきれず、俺は大地に今朝食べたものを吐きだした。
初陣はそんなもんだよなー、と先輩騎士達の同情的な声があがる。
いちど戻せば楽になるかと思えばその反対で、呼吸をするたびに血のにおいが鼻を刺激し、更なる吐き気を誘う。
なんとか体を起こそうと顔をあげると、俺とそっくり同じことをしていたボルスと目があった。
『キツいな』
目だけで、そう言い合うと、俺たちはなんとか体を引き上げ、馬に背負われるようにして戦場から引き揚げた。
「クリス様、起きてらっしゃいますか?」
天幕に声をかけると、中で人影が動いた。
「ん? 誰だ?」
「パーシヴァルです。暖めたワインをお持ちしたのですが、よろしいですか?」
「パーシヴァル?」
ばっと天幕の入口が開いたかと思うと、夜着姿のクリスが顔を出した。
俺は一歩下がって衝突を避ける。
クリスは俺の姿を認めると、ホッとしたように息を吐いた。
「なんだ……声がえらく低かったから違う人かと……」
「ちょっと喉をやられてしまいましてね。いいですか?」
「ああ、入れ」
クリスはそう言うと、天幕の中に戻った。俺はそれに続く。
グラスランドとの戦闘を終えて半日。俺たちは、まだ国境に居残っていた。
相手との協定が結ばれるまで、今回新たに引いた国境線を維持するためだ。宿舎は当然野営用の天幕である。
普通新兵は一つの天幕を四人で使うものだが、クリスは女性であり、そして指揮官候補であることから、(少々贅沢だが)一人用の天幕が与えられていた。
「どうぞ、暖まりますよ」
がらがらと、嫌な音の混ざる声で俺は杯をクリスに差し出した。
自分でも情けないと思うのだが、食べたものどころか胃液まで吐いて灼かれた喉ではこんな声しか出ないのだ。
まあ、対するクリスの声も、似たようなものだが。
「ありがとう……。すまないな、給仕なんてお前がする仕事じゃないだろうに」
「私は騎士の中ではまだ下っ端ですからね。使い走りは当然ですよ」
俺はおどけてそう笑う。クリスも、なんとか顔を笑いの形に変化させた。
彼女のような上級の騎士候補には普通、小姓か教育係がつく。
だが、彼女の教育係であった中年の下級騎士は、今日の戦闘で敵の矢をうけあっさりと逝ってしまった。パーシヴァルが給仕を行っているのは、彼の代わりとして任命されたせいである。
教育係の死には触れず、俺は微笑んでやる。しかし、彼女はベッドに腰掛けて杯を手にしたまま一向にそれに口をつけようとはしなかった。
自分もそうだが、彼女も初陣の衝撃が抜けきらないらしい。
彼女の場合、指導してくれた人物がいなくなったから余計につらいのだろう。
「そうだ、クリス様。ハチミツ召し上がりませんか?」
ふと思いついて、俺はそう提案した。クリスが首をかしげる。
「ハチミツ?」
「ええ。私とボルスが喉を痛めているのを見かねて、部隊長が一瓶くすねてきてくれたのですよ。一口いかがですか?」
まだ少女の彼女には、アルコールより糖分のほうがいいのかもしれない。
俺は彼女の前に跪くと、騎士服のポケットから小さな瓶を出した。開けると、黄金色のねっとりとした液体が満たされているのが見える。
しかし、クリスはふるふる、と首を振った。
「いや、いい……」
「そうですか」
まあ食事は食べていたようだし。
戦闘も小康状態だから、しばらく落ち込んでいても死ぬことはないだろう。
体を起こそうとすると、クリスはぱっと顔をあげた。
「あ……」
「何ですか? クリス様」
やはりハチミツが食べたかったのだろうか?
しかし、彼女はまた首を振った。
「いや……いい」
いつもはっきりとした物言いをする彼女にしては珍しい反応だ。
だけど言葉にしないのなら、聞き返さないほうがいいのかもしれない。
「では私はこれで……」
そう言って去ろうとした瞬間ふわりとクリスの腕が俺の体を抱きしめた。
「クリス様?」
抱かれた体から、布越しにクリスの柔らかな体温が伝わる。
俺はさすがに対処に困ってうろたえた。
まずい。
この体勢はまずい。
彼女は騎士で、友でもあるとわかっていても「女」を意識してしまう。
抱き返したりしてしまいそうだ。
そんな邪な思考を打ち破ったのは、彼女の安堵のため息だった。
「クリス……様?」
俺にしがみつきながら、彼女は心底ほっとしたような息を漏らす。
腕はわずかに震えていた。
「お前は……あたたかいな」
「え……?」
「生きて……いるんだな?」
必死で投げかけられる問い。
そうか、これが訊きたかったのか。
俺は彼女を抱きしめ返した。
彼女が俺のあたたかさを確認しやすいように。
そうすると、何故か俺も安堵した。
自分自身、まだかなり緊張していたらしい。
「生きてますよ」
「そうか……」
彼女の安らかな寝息が聞こえるまで、俺は何故かじっと彼女を抱きしめ続けていた。
久々の犬の更新です。
初陣話!
どんな騎士でも最初はやはりいろいろ葛藤があったんじゃないかと思うのですよ。
クリスも、パーシヴァルもボルスも平等に。
しかし……なんだかえらく甘い仕上がりに。
そしてまだまだ続きそうな予感がちょっと困りもの。
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